230.心を変えるとは
はじめに
「心を変える」とは一体どういうことなのか、最近ぼんやりと見えてきたことを、書きたいと思います。
「心」ではなく「環境や行動」を変えようとしてしまう
自分の身体をはじめ、周りのもの全ては神様から借りているものであって、自分のものではありません。
心だけが自分のものであり、自由に使うことができます。
そして、その「唯一自由に使える心」が
陽気ぐらしから離れている時 or 更なる成人(成長)を促されている時、
自分自身 or 周辺 or 世の中
に様々な病気や問題が起こってきます。
ですから、身上・事情(病気や問題)は、神様が人間に対して、
心を変えるように促されているメッセージ
だということになります。
天理教の信仰者は、この理(ことわり)を知っているので、身上・事情が起こった際に、
「神様のメッセージはなんだろう」
と考えを巡らし、
「心を変えなくては」
と色々と試行錯誤します。
さて、ここからが今日の本題です。
頑張って心を変えようとするほとんどの人は、
心ではなく「環境や行動」をあの手この手で変えようとしています。
例えば、
「毎日○○件にをいがけに回る」
「おつとめを○○回する」
「○○人おぢばがえりに誘う」
etc…
「心定め(目標を定める)」をして、それに向かって頑張る事でご守護頂くという話しは、講話や感話でよく聞きます。
しかしこれはよく考えると、
「環境・行動を変えて→心を変える」
ということです。
僕は「心を変える」を別の角度から見れば
「環境・行動は何も変わらないけど、心が変わる」
ということではないかと思うのです。
例えるなら、
「お腹が空いてる人が、ご飯を食べて有難いと思う」
これが前者。
「お腹が空いてる人が、空腹を感じられて有難いと思う」
これが後者。
こういうことなんじゃないかと思いました。
例えを読めば分かるように、前者の心は変わっていませんが、後者の心は変わっています。
つまり、後者のように
現状を受け入れるようになること、(先の楽しみ)
今が有難いと気付くこと、
これが「心が変わる」ということだと思います。
環境・行動を変えるのは意味ない?
「じゃあ環境や行動を変えるのは意味が無いの?」
と言われればそうではありません。
周りの環境を変えるには「徳」が必要で、「徳」を積むには行動するしかないからです。
しかし、いくら徳を積んでも、心が変わらなければ、その「徳」が効果を発揮出来ないと思いました。
この事について、少し詳しく説明したいと思います。
楽しいことで心は変わらない
一生懸命になればなるほど、逆にどんどん困難で辛い状況になっていく話しを良く聞きます。
所謂「因縁が出てくる」と言われるものですが、一生懸命なのにどんどん困難な事が起こるのは、実は当たり前のことなんじゃないかと最近悟りました。
神様は、一生懸命人助けをする人間が大好きです。
神様は、大好きな人間の心をなんとか変えてあげたい、早く今の幸せに気付かせてあげたいという思いから、どんどん困難を与えて下さいます。
ご馳走を食べたり、遊園地で遊んでる時に
「自分が変わらなくては」
とは思わないように、楽しいこと嬉しいことばかりの時は、自分が変わろうとは思いません。
自分が変わるときは、いつだって苦しい壁にぶち当たった時です。
積まれた「徳」で環境を改善してしまったら、結局心は変わらないままです。
ですから一生懸命行動して積んだ「徳」は、まず心を変えるために使われるので、神様は様々な困難を使って、なんとか人間の心を変えようとして下さるのだと思いました。
ちなみに、信仰熱心な方の中には、大きな「身上・事情」を経験していない方もいますが、その人達は心を変えるのに大きな「身上・事情」が必要なかった人達だと考えられます。
環境を変えるのは徳
僕は、心が運命のスイッチのようなもので、心が変わることで、悪い運命から良い運命への切り替えが行われると理解しています。
しかし、スイッチを切り替えても、そこに流すエネルギーが無ければ現状は変わりません。
この現状を変えるエネルギーが、先程も出てきた「徳」です。
では「徳」とは何なのかということですが、
これは単純に「神様の喜び」だと考えれば良いんじゃないかと思っています。
「徳」は「行動」で積まれるものです。
鼻クソをほじりながら「あの人に助かってもらいたい」と、どれだけ真剣に思っても徳は積まれません。
やはり行動が大事で、行動する判断基準を
「神様が喜ばれるかどうか」
に置くのが、信仰者にとってはシンプルで分かりやすいと思いました。
ここまでの考えをまとめてみます。
1、心はスイッチ
(悪い運命から良い運命に切り替える)
2、行動はエネルギー
(行動で、運命を動かすエネルギー《徳》が溜まる)
3、「心が変わる」とは、環境は変わらず心だけが変わること。
4、環境を変えようと頑張ってる人間には、早く心を変えて欲しいので、様々な困難が降りかかってくる。
5、心が変われば、今まで積まれていた「徳」が、良い運命へと流れ出す。
こんな感じです。
徳の中で、特に「陰徳」が最強なのですが、この事については先日ラジオで話したので、そのリンクを貼っておきます。
他にも、徳については色々と書きたいことがありますが、これ以上書くとは内容が煩雑になるので、気が向いた時に書きたいと思います。
おまけタイム
どーも!たまには好きな教内本でも紹介しようよ思う男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
最近、原典の勉強にかなりハマってるんですが、色々な解釈本が有ある中で、上田嘉太郎先生の「おふでさき通解」と「みかぐらうた略解」は、個人的にかなり好きだと思いました。
何が好きかというと、従来の説と違う説を唱える際に、なぜそのような解釈に至ったかというプロセスを分かり易く書いていることです。
解釈は書いていても、そこに至る迄のプロセスまで書いている解釈本は中々無いので面白いです。
ちょっとだけ長くなりますが、例として「おふでさき 2号-37」の解釈を紹介したいと思います。
にち〳〵に よりくる人に ことハりを
ゆへばだん〳〵 なをもまあすで 2号ー37
「なをもまあすで」、「まあす」というのは慕い寄るという意味の、大和地方の言葉だと聞いています。ここで問題になるのは、「ことハり」の解釈です。一つは理、もう一つは断りです。「参拝人御断り」の貼札をしていたという史実などから、後者を採る人が多いようですが、私は理だと思います。その理由としてはまず、執筆年代の明治二年はまだ取り締まりが厳しいという状況ではありません。吉田神祇官領が廃止されたのは明治三年ですから、まだ公認が有効です。また、意味的に言っても道理、筋道を説くと人々が慕い寄ってくるというほうが分かり易いように思います。
「おふでさき」の翻訳会議をしていた時に、同じ言葉には極力同じ訳語を当てるという原則に基づいて「ことハり」の訳語をずっと並べてみると、このお歌だけが拒絶という訳になっていたのです。これはおかしいのではないかということがきっかけとなって、思案させてもらったところ、日々に寄り来る人に理の話しをすると、だんだんとなおも慕い寄って来る、と解釈するほうが良いという結論になりました。なお、「参拝人御断り」という貼札をされていたのは、初代真柱様の手記によると明治十五年頃のようです。
このように、解釈に至るまでのプロセスが分かりやすく書いてありますので面白いです。
気になった方は是非読んでみて下さい。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
ほな!
サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!