見出し画像

112.増井りん「布教に出るには大宇宙を我が家と思い…」ってどういう意味?


はじめに

教祖御在世時の先人、増井りん氏のお話をまとめた道友社新書「誠真実の道・増井りん」を読んでいると、

布教に出るには大宇宙を我が家と思い、行く所行く所、我が家とし通らしていただく心を、ちゃんと心に納めなければなりませぬ。この心が治まってあれば、自由自在の御守護が戴けます。

という文言が出てきます。

「布教」と「大宇宙」と「我が家」を掛け合わせた表現は、今まで聞いたことの無かったので、パッと理解ができませんでした。

そこで、本日の記事は、この言葉には増井りん氏のどのような思いが込められているのかを、考えて行きたいと思います。
(※マジでなんの見通しも立っていませんので、書きながら考えていきます)


資料として、今回取り上げた言葉の前後はこのようになっています。

道を通るには、どんな道も、どんな苦労もありましょう。けれども、布教に出るには大宇宙を我が家と思い、行く所行く所、我が家とし通らしていただく心を、ちゃんと心に納めなければなりませぬ。この心が治まってあれば、自由自在の御守護が戴けます。神様にはちゃんと身についてあらせられます。布教の上にはいろいろ難儀なところ、苦しいつらいところもあろうが、教理がちゃんと納まってあるかぎりは、「これが道すがらは結構や」という心になります。「ああ結構」の理を心に納めていれば、辛い事も難儀な事も、茨畔も楽しみとなって、汗水かいて通らねばならぬ辛い道すがらも、「ああ有難い」という心になって通らしていただけるのでございます。
p169


3つの心に納めるべきもの


本文には、心に納めるべきものが3つ、それにより戴けるものが1つ、なれる心が2つ挙げられています

・行く所行く所、我が家とし通らしていただく心
 戴けるもの→自由自在の御守護

・教理 
 なれる心→「これが道すがらは結構や」という心

・「ああ結構」の理 
 なれる心→辛い事も難儀な事も、茨畔も楽しみとなって、汗水かいて通らねばならぬ辛い道すがらも、「ああ有難い」と思える心

「教理」と「ああ結構の理」は意味合いが地続きになっています。
どちらの心も、どのような状況でも喜びに繋がること、
「たんのう」を表しています。

それらと比べて、
「我が家とし通らしていただく心使い」は、自由自在の御守護が戴けるということなので、心に納めるべき「教理」や「ああ結構の理」とは別ものだということが読み取れます。

ですから、この3つは同じ意味で説明されているわけではありませんので、後ろの文から「布教に出るには大宇宙を我が家を思い…」の意味を読み解くことは出来ないと考えられます。


自由自在の御守護が戴ける心


次は、「自由自在の御守護が戴ける心」という観点から掘りげてみたいと思います。

「自由自在の御守護が戴ける心」=「誠真実の心」であるということに異論は無いと思います。

「誠は天の理」という言葉が多数のおさしづにあるように、「誠真実の心」=「親神様の思召にかなう心」です。

しかし、「行く所行く所、我が家とし通らしていただく心」=「誠真実の心」(親神様の思召にかなう心)

この方程式がスッキリ繋がらないように感じます。

その理由を考えてみると、「行く所行く所、我が家とし通らしていただく」ことが、なぜ親神様の思召に叶うのかが分かりにくいからではないでしょうか。



増井りん氏の家族観


そこで、「我が家=家族」であると仮定して、増井りん氏の家族観を掘り下げてみたいと思います。

本書には、増井りん氏が入信される前は、どのような状況であったかが、詳しく書いてあります。
そこを要約すると。

明治5年7月、増井りん氏が30歳の時、父親が出直し、更にその3ヶ月後の10月に夫が出直すという出来事がありました。
父親と夫をが立て続けに出直した後でも、幼い子供が3人もいましたので、なんとか子供だけは一人前に成人させてやりたいと決心され、一生懸命働かれたたそうです。
そんな状況の中で、目が開かなくなり、子供達をどうやって育てていけばよいのか途方に暮れていた所を助けられ、信仰を始められました。
(このお話は、本書に詳しく書いてますので、是非読んで戴きたいです。)

こういった状況から考えますと、増井りん氏にとって家族(我が家)とは、
「自分が支え、守るべき存在」だったではないかと考えられます。

つまり、「行く所行く所、我が家とし通らしていただく」というのは、
「行く所行く所、自分が支え、守るべき家族だと思って通らせていただく」
ということではないでしょうか。


大宇宙を我が家と思い


もう一点、「大宇宙を我が家と思い」について考えていきます。

ここに出てくる「我が家」の意味は、自分が支え、守るべき存在」といった意味ではなく、「ホームグラウンド」的な意味合いが込められているのではないかと推察します。

「大宇宙」と言われて、真っ先に頭に思い浮かぶのか「この世は神の身体」と言うことです。

ですから、「大宇宙を我が家と思い」は、
「神様の御守護(身体)に包まれているのだから、我が家だと思って安心したら良い。」という意味ではないかと思います。


これらを踏まえて、冒頭に上げた

布教に出るには大宇宙を我が家と思い、行く所行く所、我が家とし通らしていただく心を、ちゃんと心に納めなければなりませぬ。この心が治まってあれば、自由自在の御守護が戴けます。

この言葉を雑に訳してみると、

布教をする際、どこにいっても神様の御守護に包まれている。つまり、いつでも神様が側にいるので、どこでもホームグラウンドだと思って安心して布教したら良い。
そして、尋ねる家(人)は、どんな家(人)であっても支えるべき家族だと思って、親心を持っておたすけさせて頂いたら良い。
そうすれば、神様から自由自在の御守護をいただける。

こんな感じの意味になるのではないかと思いました。

他にも「こんな意味じゃないか」「こんな風にも考えられないか」という意見がありましたら、是非教えて下さい。

まとめ

「我が家」には、「安心感」「親心を持つこと」の2種類の意味が込められていると考えられる。
そこから導き出される増井りん氏の思いは、
「親神様に凭れ、誰に対しても親心を持って接していれば、親神様が御守護くださる。」
ということではないか。

※追記

コメント蘭を読み、「我が家」には「我が家のいんねん」といった要素も含まれていると感じました。


おまけタイム

どーも!カレー作りにハマる男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今回の記事は、ゴールの検討が全くついていない状態から書き始めましたが、なんとか落ち着く所に着地できたように思います。

ゴールに辿り着くと結構な快感を得られたのですが、この快感と似てるものを考えた時に、僕の中で出た答えが「カレー作り」だったのです。

僕が作るカレーは、本格的なスパイスカレーではなくて、ルーで作るタイプのカレーなのですが、
毎回味の検討も付けずにチャレンジをしているのに、
毎回予想以上に美味しく出来上がるので、
毎回感動するんです。

カレーにだけ関して言えば、完全に親の腕を越えたと思っています。

ちなみに、唯一嫁に不評だったのが、ミカンの果汁を絞って加えたミカンカレーでした。

酸味が強いミカンを大量に投入したため、すっぱいカレーになってしまったからです。(嫁は酸っぱいのが苦手です)

僕的にはさっぱりしてアリな味だと思ったので、良かったら試してみて下さい。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!




サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!