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78.信仰するといんねんであるとか、理であるとかと、何かしばられて窮屈でなりませんが、これはどうでしょうか? 「続・信仰問答」#3

はじめに

僕の家に眠っていた「続・信仰問答」という本は、天理教に関する疑問を、Q &Aで答える方式の本で、昭和37年に発売された本です。

この本に出で来る質問は、約60年経った現代でも、天理教信仰者を怯ませる「エグい質問」が詰まっています。

このシリーズでは、本に載っている質問と回答を取り上げ、そこから考えられる僕の意見を書いていきたいと思います。

前回の記事はこちら

それでは今回の質問に移りたいと思います。


Q.信仰するといんねんであるとか、理であるとかと、何かしばられて窮屈でなりませんが、これはどうでしょうか?


人間は親神様から心の自由を与えられておりますから、どんな生き方をすることもできます。
しかし、だからといって、自分勝手な心遣いをして生きていますと、心のほこりがつみ重なり、だんだんと身上や事情にせまられて陽気ぐらしできないようになっていきます。また自分ではこれでよい、これが自分に一番適当な良いことだと思ってしているように思われることの中に、実はそれは自分のいんねんがそのようにさせているだけのことであるということがよくあります。
反対に、信仰して窮屈だと思っていても、窮屈だと思うのは、自分勝手な、いんねんのままの心がそう感じるのであって、そうした人は、窮屈な思いをしているということによって、現在の心の成人の段階では、たすかって行っているわけです。
ところで、よく、「そんなことをすると、いんねんを積むことになるからいけない」とか、「それは理が違う」などと言われるのは、将来身上や事情にせまられてより窮屈な不幸な目に遭うことのないようにさせてやりたいという上からの言葉であると思います。しかし、そうした生き方だけが信仰であると考えますと、それは極めて消極的な窮屈なものになってしまいます。しかし信仰の本質というものは、もっと自由で積極的なものであって、それは親神様の思召をどこまでも研究し、みずから進んで明るい陽気な世界を開拓してゆくところにあります。その点から申しますと、信仰の世界は、まことに積極的で、かぎりなく広いのであります。
親神様は、心のほこりを払えと教えられておりますが、それは、人間が当然のことであると思っているような中にも、親神様の目からすれば心得ちがいなことがずいぶんあるのですから、それを毎日払ってゆけということであります。そうした心のほこりを払う反省の日々を通らず、いんねん通りに、自分勝手な自由な通り方をするのは楽でありますが、それでは陽気ぐらし出来ません。親神様の思召に添ってゆこうとするとき、人間はしばしば窮屈であるというような感じを持ちやすいものでありますが、窮屈だと思われることの中を明るく勇んで生きてゆくことによって、たすかってゆくのであります。また、いんねんということを、一生つきまとう暗い運命のようなものと考えるとき、それは自分で自分をしばりつけ、窮屈にし、心を勇めなくしてしまいます。しかし、親神様の思召をさとり、日々に心のほこりを払って喜んで生きてゆくならば、今まで窮屈だと思って喜べなかったことの中にも、明るい希望が見出せるようになります。


人間は窮屈な方が自由になれる


今回の質問の主張は、
「信仰をするといんねんや理に縛られて自由に行動出来なくなるのではないか」
ということです。

最初に結論を言いますと、これは全くの間違いで、
人間はルールに縛られた方が自由になれます。

この理由は、なぜ法律があるのかを考えたら一発で分かります。

自由とは、
「自分で選べる選択肢が多い」
ということだと思います。

もし世の中が法律も何も無い、北斗の拳に出てくる町のような無法地帯だった場合、人間は自由に好き勝手に生きることができると思ってしまいます。

その場合、暴力や詐欺等の犯罪行為が新たに選択肢に加わりますが、
「人を信じるということに関係する選択肢」
を全て失ってしまいます。

「人を信じるということに関係する選択肢」の例を一つ上げると
「お金」も、価値があると人々が信用しているから成り立っています。
無法地帯になればお金などただの紙切れになり、貨幣など無い原始時代と同じ生活を送ることになる為、お金ひとつとっても、自分で選べる選択肢が大幅に減って、自由がなくなってしまうことは明白です。



天理教の教えは、人間の取り扱い説明書


僕達が神様から借りているこの身体をロボット、心をパイロットだと仮定します。

動かし方を知らずにロボットに乗り「ダンスをして下さい」と言われても、上手く操縦できるはずがありません。
下手すれば、ロボットを壊してしまうこともあると思います。

しかし、説明書を読み、ロボットの動かし方(心の使い方)さえわかれば、ダンスだってなんだって自由にロボット動かす事ができるようになります。

この説明書に当たるのが「天理教の教え」なのです。

ですから、
逆説的ではありますが、ルールや法則があるほうが人間は自由になれるのです。

信仰することを窮屈だと思ってしまうのは、このことを分かっていないからだと思います。

本文中に

信仰の本質というものは、もっと自由で積極的なものであって、それは親神様の思召をどこまでも研究し、みずから進んで明るい陽気な世界を開拓してゆくところにあります。

と書いてある通り、
信仰とは、窮屈と真逆で、人間の心を自由にして、陽気ぐらしへと進んでいくための方法ではないでしょうか。


おまけタイム


どーも!耳掃除は綿棒より耳かき派、歯磨きは電動より手動歯ブラシ派、ビールは温かいより冷たい派の男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今日は、しりとりでハゲにたどり着いたら寝ようかと思います。

しりとり→リサイクルショップ→プルコギ→ギョウザ→ザーサイ→イカリング→グァバジュース→ステーキ→きりたんぽ→ポタージュ→夕ご飯

「ん」がついてしまいました、あとなぜか知りませんが、めちゃくちゃお腹が空いてきました。

一体なぜなんでしょう?

とりあえず、しりとりのリベンジは気が向いたらしたいと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!





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