99.9.「たんのう」は教祖のひながた -「たんのう」解説- #6
はじめに
前回に引き続き、深谷忠政氏著書の「天理教教義学序説」を出来るだけ分かりやすく、噛み砕いて説明していきたいと思います。
今回は、「教祖のひながた」についてです。
噛み砕いて説明しても、普段の記事より少しコアな内容になると思いますが、ご了承下さい。
昨日の記事はこちらです。
<天理教教義学序説を噛み砕く>
自分が「たんのう」するだけでは駄目
往々たんのうは自分だけでするものであると誤解されているようであるが、これでは半分の意味しかない。たんのうは周囲の人にもしてもらわなければならない。
自分だけ「たんのう」するだけでは駄目で、周囲の人にも「たんのう」してもらわなければいけません。
自分が「たんのう」するだけでは駄目だという衝撃の事実です。
周囲に「たんのう」してもらわなくてはいけない、これはかなり難しい事だと思います。
自分の心を変えるのではなく、相手の心も変えなければならないからです。
相手の心を変える方法は、次に書かれています、
それは、「人に腹をたてさぬよう、人の嫌がることを少しもせぬよう、また言わぬよう、あの人は、よい人や、あの人の言うことには角がない、あの人のすることは皆丸い。あの人のようでなくてはならんと、人に思われ、喜ばれ、世界皆満足してくれる」ことである。
相手の心を変える方法、それは自分の心を変えることです。
言い換えれば、
相手に「たんのう」してもらうには、自分が「たんのう」しなくてはいけないということです。
相手に「たんのう」してもらう事に関して、最新のあらきとうりょう278号に、深谷太清氏がこんな内容の記事を書いていましたので、簡単にまとめて紹介させて頂きます。
膝が痛いという90歳の方のおさづけを、毎月させていただくが、一向に良くならない。
しかし、おさづけを毎月させていただく内に、
「よく考えたら、この膝は90年間も使わせてもらってきたんだな」と長年の道具をいたわるような気持ちが湧いてきた。
そうすると、それまで「有難いですね」と言っても、どこか心がこもってなかったような気がしていたが、
「人生の中で90年も借り続けて使わせてもらっているものってそうないですよね。本当に有難いですね」
と心を込めてかしもの・かりものの話しを出来るようになった。
普通の話しならここで終わりですが、この話はここからが肝なります。
しかし、当の本人には伝わらない。
そうして1年くらい言い続ける内に、また別のことに思い至った。
「よく考えれば、私自身はその大きなご守護をすでに頂戴していて、毎日痛みもなく膝を使わせていただいているのに、そのことに喜びを持って毎日過ごしているのだろうか」
自分自身が「かしもの・かりものの理」を実感していないのに、相手に伝わるはずがない。
そのことに改めて気付かせてもらったのです。
このように、「人のため」「人助け」と言うように、とにかく人のことばかり考えていると、自分のことをすっかり忘れてしまうことがあります。
これは信仰者の陥りやすい「罠」だと思いました。
人のことばかり考えるせいで、自分のことを忘れてしまってはいけませんので、「人は鏡」という教えを心に置いて、常に自分を見失わないようにしなくてはいけないと思います。
ひながたの道はたんのうの道
いかなる中も心くじけず、ひるむことなく、喜び勇んでお通りくだされた教祖は決して自分だけが、ただ現在の境遇に案ずるという意味のたんのうの実践者ではなく、むしろ人々をしてたんのうの実践者たらしめるように、ことさらに苦難の中に躍り込み、その中から身をもってたんのうの実を示しながら、おのずからたんのうせずにはおれない陽気ぐらしへの道を開かれたのであった。
これまで、ひながたとは、教祖の通られた我々人間の手本となる通り方とだけしか認識していませんでした。
よく考えれば分かることですが、
教祖は、周りの人間を「たんのうせずにはおられない状態にする」という、もの凄い影響力をもっていたわけです。
そんな、誰もが「たんのうさせて頂きたい」と思えるひながたを、一体どうやって辿れば良いのか、今後思案していきたい課題です。
親神の思召の巨視的面が陽気ぐらしの世界建設であるとすれば、微視的面は個々の人々のたんのうであるということができよう。
人類全体の目標:陽気ぐらし世界の実現
個人の目標:たんのうの心
たんのうと反対の心づかいは、第一には不足しないことである。「不足は切る理たんのうはつなぐ理」というわれわれが常に耳にする言葉は、不足とたんのうの特質を明確にするものであろう。
たんのうと反対の心づかいは、不足な心づかいです。
言い換えると、八つのほこりが、たんのうとは反対の心遣いであると言えます。
ここで言う「不足」や「つなぐ」とは何が主語なのかを考えた時、健康や人間関係、金銭といったものに関する、あらゆる徳のことではないかと考えられます。
「たんのう」することは、それらの徳と自分を繋げることになりますが、「不足」してしまうと、そうした徳が切れてしまうということではないでしょうか。
「案じ心」を離れることもたんのうの実践につながるだろう。真意に徹底して添い得ない者は「案じ心」にとらわれて思い惑い、いたずらに不足を漏らし、愚痴をつぶやきがちである。
どうも半端、心にたんのう出来ん (明治40年4月9日午前1時)
といわれるゆえんであろう。
「たんのうは改めた心の理」(明治24年1月30日)という諭しは、個々のほこりを払いのけた、すがすがしい心になった時にたんのうができることを教えられらのであろう。
「パッと浮かぶは神心(かみごごろ)、後で浮かぶは人間思案」
と言う言葉があります。
例えば、電車で席に座っていて、目の前にお年寄りが来た時、
「席を代わらなきゃ」
と、パッと思うのが神心で、
「でも声をかけるのは恥ずかしいな、断られたら嫌だな」
と後で考えてしまうのが人間思案です。
このように「案じ心」は、自分中心の心遣いをしてしまっていることだと考えます。
自分の損得を勘定したり、自分の都合についてついつい考えてしまいがちですが、そうした案じ心では、いつま経っても「たんのう」できないよ。と教えて頂いています。
朝に夕にあしきを払うつとめの勤修にいそしむ天理教者は、たんのうの人でなければならない。
朝夕のおつとめは、心のほこりを払うおつとめですから、そのおつとめを真剣につとめるのなら、自ずと心は澄み切って「たんのう」出来るようになるのだと思います。
精神文化の背景が浅薄なところには、たんのうは育ちにくい。たんのうはにほんの心であり、から・てんじくの心と対比されるものである。たんのうの人こそ、真に教養のある人であり、欲望の体系といわれる現代社会に最も貴重とされる人である。
精神文化の背景が浅薄なところには、たんのうは育ちにくい。
このように言われる理由は「たんのう」は、本能とは真逆の性質であり、強い理性を持ち合わせていないと「たんのう」することは出来ないからだと思います。
にほんの心と、から・てんじくの心は、おふでさきと同じ解釈で良いと思います。
にほん:親神様の教えをわきまえた者
から、てんじく:親神様の教えをまだ知らない、信じていない者
この本が書かれた時代から何十年をも経過した今、ようやく時代がたんのうの人に追いついたような節があります。
「たんのう」の心を持つ人は、引く手数多の求められる人材であるので、しっかり「たんのう」を心に納めたいと思う次第です。
おまけタイム
どーも!眠すぎて、記事の後半駆け足になっている男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
先程、Twitterで驚愕の新事実が発覚しました。
それがこれです。
僕はTwitterを始めて約4ヶ月、ずっと自分の名前を「ほこりまりれ」にしていたようです。
(アカウント作成日は昨年の7月になってますが、作っただけで全く開いていなかったので、実際にTwitterを始めたのは12月の中頃です。)
この期間中誰にも指摘されなかったので、認知の歪みってすごいなーと感心させられる出来事でした。
本日も最後まで読んで頂きありがとうございました!
ほな!
サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!