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132.おふでさき概説 おふでさきの扱い方



はじめに

二代真柱中山正善氏(以下二代真柱)ご執筆の「おふでさき概説」を気軽に復習できるものが欲しいと思ったので、自分で作ってしまおうと思いました。
天理教信仰者としては、一度は目を通しておきたい本の一つだと思いますが、中々本を読む機会が無い方も多いと思いますので、そういった方にも、「おふでさき概説」の流れを知っていただけたらと思います。

前回の記事はこちら


御趣旨より思案するおふでさきの扱い方

「128.おふでさき概説 正冊と外冊 定義と立ち位置」で。教祖が示されたおふでさきの定義は、
1、「ふでさきのせめ」である
2、「話しの台」である

このように紹介させていただきました。
この2つの定義を基におふでさきの取り扱いについて話しを進めていきます。

従来のおふでさきでは、御歌を一つ一つ独立させて味わうことが主流でした。

しかし、二代真柱は第一号の始めから第十七号の終わりまで、御歌の順序、御歌同士の繋がりについても、もっと気を配るべきではないかと考えました。

第一号の始めの御歌から、第十七号の最後の御歌に至る迄の一七一一首の御歌の順序というものは、果たして偶然に並べられたにすぎなかったものであろうかという問題となるのではないか。私はむしろこの間に、一つの教理体系というものが必ず在るという気持ちがしている。

なぜこのような考え方になったのかというと、三つ理由をあげておられます。

理由1 おふでさき第1号21.22.23から考える、第17号75の格外れな表現

これをばな 一れつ心 しやんたのむで 17-75

と、“しやんたのむで”という言葉で括られている。この御歌は形の上からも格外れであると同時に、最初の御宣言(※1)から考え併せると、御言葉の表現の上からも大変な格外れであるように思われる。この中には大きな意義が必ず含まれているという気がするのは、必ずしも私一人ではないだろう。

※1 おふでさき第1号21.22.23

理由2 神・月日・をやの問題

「神」と言う言葉で始まった親神様の呼び名を、第6号の中頃からは「月日」、第14号からは「をや」と変えられています。

これを体系的に順序を以て見ると、神に始まり月日、をやと変わっていったこの順序の間に、何か思召しを悟るべきだということが考えられる。


理由3    心得違いは筆に知らすから、話の台にすること

言葉を文字にして残すということは、その言葉は世代を越え、地域を越えて届かせることができます。
おふでさきは個人に向けられた言葉もありますが、それは個人の問題で終わるのではなく、話の台にしなくてはいけない、我が事としなくてはいけません。

この点に於て最も多く現れるのは、秀司お祖父さんの例である。四十九年以前から年限と共に色々の姿を秀司様の上に表されて、共に御苦労をなされ、そして表に残ったのは足のちんば、又他方では事情であった。これをおふでさきで再々問題としておられるわけであるが、この点に於ても何等かの順序というものは考えられそうである。

おふでさきで諭されている教理は、聞くひとが必ず納得できるようにとの親心から、順序立てて説かれている。
偶然並べられた御歌ではなく、深い親心がその順序にも込められていると二代真柱は考えています。


順序を意識すると見えてくるもの


順序を意識すると、おふでさきに書いてある御歌が全く違う表情を見せてきます。

例えば、この世初まりの話は、第6号や第12号に散見され、更にその後ろで「かんろだい」についてお話になっています。
これは「元初まりのお話が少しづつ出てきている」というのが一般的な解釈でした。

しかし、順序を意識してみると、親神様はこの「元初まりの話」を通じて、「たすけづとめの理」を教えようしておられることに気が付きます。

おふでさきの「子数」から「かんろだい」に到るまでの間に、「ぢばの理」や「教祖のお話」などが出てきます。

個々には違う話のように思えますが、それはどれも、たすけづとめを納得する上には必要な、根本的なお話しである事は否めません。

このような手段をとって、おふでさきは終始話を進めておられることを、知っておく必要があります。



おふでさきで人間をどのように表現しているか


親神様は「神・月日・をや」といった表し方をされています。

それでは聞き手である人間はどのように表されているかと言えば、
小さい範囲では「そばな者」「みなの者」「うちなる者」など
大きい範囲では「世界の者」「世界一列」など

他にも多々見受けられます。

筆先の攻めの対象になる者(人間)に対応する言葉は、他にも沢山ありますが、この言葉「神・月日・をや」に対照した問題として、今後の研究課題だとしています。


おふでさきを通じて、親神様は何を仕込もうとされたのか?


人間が陽気ぐらしをする事の出来る将来への道すがら、言い換えれば、よふきぐらしへの道の基本的叙述とでも申せよう。つまり最後の御言葉のように、その大目的を“悟り取るよう”努力する事がおふでさきに対処する私共の心得ではならないと考える者である。

本日はここまで!


おまけタイム


どーも!昨日の田植えで筋肉痛になっていると見せかけてなっていない男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

筋肉痛にならずに済んで本当に助かっています。

この感謝の気持ちを表すべく、筋肉痛(きんにくつう)であいうえを作文を作りたいと思います。


きみと初めて喋ったのは
ん?どうしたの?って聞いてくれたあの日
にくいぐらい可愛らしい君の横顔に
くるしくなる。
ついに告白しようと思う
うしろ姿を見ているだけは卒業だ



練習終わり!


本番スタート!


キンキンに冷えた八宝菜
んーこって言うな、うんこだ!
ニコラスケイジ見たいな顔しやがって
くそって言うな、んーこだ!
痛風だけは勘弁して下さい
ウーロンハイだけはマジで許さない

ふー( ̄∀ ̄)
名作になりうる作文ができました。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!




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