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245.「世間」と「社会」と「おたすけ」


はじめに


朝日新聞出版から出ている、
「なんとかならない時代の幸福論 ブレイディみかこ×鴻上尚史」
本書はブレイディ氏の鴻上氏の対談本です。

本書では「世間」と「社会」の違いについて議論されており、その部分を読んで色々と考えさせられたので、今日はそのことについて書いていきたいと思います。


「世間」と「社会」の違い


まず説明しなくてはいけないのは、
「『世間』と『社会』って何が違うの?」
という、皆さん思ったであろう疑問についてです。

本書で簡潔に述べられている部分を引用すると

(前略)
自分と利害関係にある人達のことを世間と呼んで、
自分と全く利害関係の無い人達が社会になる

(後略)

このような違いになります。

少し長くなりますが、「世間」と「社会」の理解を更に深めるために、本文を引用します。

ブレイディ 
(前略)2019年、日本に台風が来た時、どこかの避難所でホームレスが入るのを役所から断られてましたよね。実はイギリスでもニュースになっていました。BBCが報じてたのかな、新聞にも載ってましたし
 その時、息子が言ったんですよ。「日本人は、社会に対する信頼が足りないんじゃないか」って。息子によれば、そのホームレスを断った人は、自分のことを本当は考えていないんじゃないかと。もしここで「ダメです。入られません」と言ってしまった場合に、そのホームレスの方はそれからどうなるんだろうって考えたら嫌じゃないですか、すごい嵐の中でどんな目に遭うかわからない。もしかしたら命を落とすかもしれないと思ったら。
 そんな状況は個人が背負っていくにはすごく重いじゃないですか。だから本当に自分のことを考えてるんだったら、いいですよって入れちゃったほうが楽じゃないかと。でもそこで入れられなかったのは、避難所に来てらっしゃる他の方――例えば町内会など地域の人々や、自分が所属している役所の上司とかが、拒否したいだろうって思ってたから。
「本当に個人として自分のことを考えたら、そこで誰かの生命に対して責任を負うなんでことはしないはずだ」って、ウチの息子は言うんですよ。だから、「周囲の人達がきっと嫌だって言うに違いない」っていう考えは、あまりにも社会への信頼が足りない。確かに日本にはそういうところは、あるような気がしますよね。  

鴻上
僕がずっと言っていることですが、「世間」と「社会」で考えれば、そのホームレスを断った人は世間に生きている。自分と利害関係にある人達のことを世間と呼んで、自分と全く利害関係の無い人達が社会になるんですけど、避難所に集まった人達は、区役所の人にとって世間で、ホームレスは社会、ということになるんです。結局。区の役所の人の場合は世間を選んで、社会は無視したんです。
私達日本人が、駅でベビーカーを抱えてフーフー言いながら、階段を上がっている女性を助けないのは、社会に生きている人達だから関係ないと考えるからです。知り合いだったら、すぐ飛んでいって助けるでしょう。それは相手が世間の人だからです。
断った役所の人にとっては、ホームレスは完全に社会に属する人だから無視してても構わないという考えですね。一方、避難所の人達は、世間に属する人達だから大切なんです。
それはつまり、ブレイディさんの息子さんが言ったように、社会に対する信頼が低い……というか、ほとんどないと言ってもいいかもしれない。日本の「旅の恥はかき捨て」っていう言葉は、旅に出るともう出会う人は、みんな社会だから何をしても別に構わないということですから。

(本書はずっとこんな調子で最初から最後まで続きますので、めちゃくちゃ面白いです)

このように、
日本人は「世間」と「社会」に対する対応が全然違います。

例えば、田舎に引っ越した際、最初は警戒されたけど、一度打ち解けたら凄く居心地が良くなったという話しがあります。

これはまさに「社会」から「世間」になる話しです。

この「世間」と「社会」という考え方が、
おたすけのあり方・教会のあり方をクリアにしてくれると思いました。


教会を「世間」にする活動


この本を読んで率直に思ったことは、
「教会は大半の人にとって、社会として見られているんだ」
ということです。

地域の人達にとって教会を
「社会」から
「世間」へと変えてゆく。

言い換えると、

地域の人達にとって教会を
「利害関係の無い場所」から
「利害関係のある場所」へと変えてゆく。

こういった試みが、日本では大切なんだと思いました。


特に、多くの教会が行っている
「子供食堂」
「フードパントリー」
「里親」
「災害救援」等

こういった地域貢献活動は、まさに
「地域の人達にとって教会を
「社会」から
「世間」に変える活動です。

ヨーロッパでは「社会」が信用できる位置づけにありますが、
日本で同じように「社会」を信頼できる位置づけにすることは、個人の力では難しいと思います。

ですから、教会を「社会」から「世間」にしていくことが、
教会が「地域のたすけ道場」になる為に必要な事ではないでしょうか。



信仰者は周囲をどう見るか


しかし、もっと大切なことがあります。

それは信仰者自身が
「周囲を「社会」として見ていないか」
これを常に自問自答することです。

つまり、
『周囲の人から見て教会を
「社会」から
「世間」にすること』

よりも先に、
『信仰者から見て周囲を
「社会」から
「世間」にすること』

これが絶対不可欠なことです。

これは、
「出せば入る」
「人助けて我が身助かる」
「心通り世界に映る」
「相手に心を開いて欲しいと思うなら、まずは自分から心を開く」
これらと構造は同じで、
まずこちらの心(意識)が変わることで、周りが変わる天の法則だと思います。


そもそも「世間」が無くなっている問題


ここまで、日本人は周囲を「社会」と「世間」に分けて見ているという話しをしてきました。

しかし、現代人はそもそも「世間」が無い人がかなり増えていると思います

これは「世間」が無くなり、自分の周囲は「社会」だけ。という人のことで、
所謂「無縁社会」言われるものです。

つまりこの「無縁社会」とは
「世間」が無い人が、マジョリティー(多数派)になる世界の事だと思います。

それは
「周りが全て自分と全く利害関係の無い人達になる」
このような世界観であり、
こう考える人達がマジョリティーの世界は、
神様が望まれた陽気ぐらし世界とは全く正反対の世界です。

そんな世界は、神様は望まれていません。

ですので、そこに必ずは綻びが生じ、神様が身上・事情を通して、「無縁社会」で生きる人間を陽気ぐらしへと引き寄せようとされます。



最後に


このように考えると、
「子供食堂」「フードパントリー」「里親」「災害救援」等
こういった地域貢献活動に対する見方も変わってくる気がします。

地域貢献活動は、
「それ自体が目的ではなく、あくまで陽気ぐらしの為の手段である」
このように考える事が基本ですし、
僕もそのように思っていました。


しかし実際、この地域貢献活動自体が、

「陽気ぐらし世界の一部である」

このように考えても良いんじゃないかと思ったんです。


すでに、そのように思われている方も居るかと思います。

今回のnoteを読まれた皆さんはどう思いますか?

「陽気ぐらし世界の一部」

このような考え方で世の中を見ていくと、色んな可能性が開けてくるんじゃないかと思った次第です。




おまけタイム


どーも!本日三十路になった男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

昨日ついに30歳になり、30歳になった心定めをTwitterでツイートしました。

それがこちらです↓

このツイートに対し、嫁→妻は特に何も問題なかったのですが、
「一人称は僕で良いんじゃないの?」
といった内容のリプが沢山きて、固い決意が早速崩壊しそうです。


そして…


そんな僕の軟弱な決意を、完全に崩壊させたのがこのツイートです。



と言う事で、僕は今後、
「一人称を僕・私の二刀流使いする事を固く決意したいと思います」

(誰が興味あんねん!!)


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!



サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!