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133.お道に知恵や学問はいらぬと言われますが、学問と信仰は矛盾することでしょうか?「続・信仰問答」#16

はじめに


僕の家に眠っていた「続・信仰問答」という本は、天理教に関する疑問を、Q &Aで答える方式の本で、昭和37年に発売された本です。

この本に出で来る質問は、約60年経った現代でも、天理教信仰者を怯ませる「エグい質問」が詰まっています。

このシリーズでは、本に載っている質問と回答を取り上げ、そこから考えられる僕の意見を書いていきたいと思います。

前回の記事はこちら

それでは今回の質問です。

Q.お道に知恵や学問はいらぬと言われることがありますが、学問と信仰は矛盾することでしょうか?


ない世界・ない人間をお創めくださいました親神様は、また人間に知恵の仕込みをお教えくださいました。その知恵の仕込みの1つが学問であります。しかし親神様が天保9年、旬刻限の到来と共に、教祖をやしろとして表にお現れになったのは、この世の元初まりの真実を明かし、人間が元の親を知って心を入れ替え、陽気ぐらし出来るようにさせてやりたいという親心の上からのことであります。その点から申しますと、お道は根本的には親神様直々の教えであって、人間の知恵や学問からはじまった道ではありませんし、知恵や学問とも違います。したがって、信仰は知恵や学問とは違うのであるという意味で、お道に学問はいらぬということが言われるならば、それは本当ではあります。
また、もちろんこの世界は、地位や学問によっておさまるものではありません。

このみちは どういうことに おもうかな
このよをさめる しんぢつのみち 6ー4

と教えられていることを深く味わいたいと思います。それを、学問が真実を知る唯一の道であるとか、この世おさめる唯一の道であると思ったりするならば、本末転倒した考え方になっていきます。
しかし、親神様は決して人間の知恵や学問も不要なこととして否定しておられるわけではありません。知恵や学問は親神様の知恵の仕込みの賜物でありますから、それはもっと伸ばしていけば良いと思います。ただそれを真実を知る唯一の道であると思う事は、立教以前のあり方であって、親神様が直々に表にお現れになり、助け一条の道をおつけになった現在、そうしたあり方は一考を要します。知恵の満足がなければ陽気ぐらしできない人もいますが、実際は、知恵や学問だけでは人間は陽気ぐらしすることができないのでありますから、学問することによって、親神様のご守護の世界をよりいっそう深く悟らせてもらい、それを悟らせていただくことによって、心が陽気ぐらしできるようにさせていただきたいものであります


信仰と学問は違うという意味

本文に

信仰は知恵や学問とは違うのであるという意味で、お道に学問はいらぬということが言われるならば、それは本当ではあります。

とあります。

これは稿本教祖伝逸話篇でも説明されています。

教祖伝逸話篇190 この道は

明治十九年夏、松村吉太郎が、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振舞などが、異様に思われ、軽侮の念すら感じていた。ある時、教祖にお目通りすると、教祖は、
「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや。」
と、仰せになった。
 このお言葉を承って、松村は、心の底から高慢のさんげをし、ぢばの理の尊さを、心に深く感銘したのであった。

このことから分かりますように、信仰に知恵や学問は必要ないということではなく、信仰と知恵や学問は違うということを説明されていることが分かります。


知恵・学問で信仰を疑うのは己の未熟さを分かっていない


知恵や学問は親神様がお仕込みくださった、人間の能力ですが、信仰と知恵・学問が矛盾してしまった時、信仰を疑うようになっては、全く知恵や学問を十分に生きかしきれていないことになると思います。

二代真柱様も

私の信念を以てするならば、教祖の教えをあく迄も貫いて行くのには、それは、学問的に行こうと、信念的にこれを論じようと、帰するところは一つであって、その間には何ら矛盾はないと信じている。又、若しもそこに矛盾を感じたならば、それは自分の未熟さに原因するものと考えておる。

このように言われているように、信仰と知恵・学問に矛盾を感じ場合は、自分が未熟であると思える心を、常に忘れてはいけないと思います。


信仰があれば、マジで知恵・学問が要らない説


これは私が聞いたある教会長の話です。

その教会長は病気で長期入院することになりました。
入院する際、おふでさき・みかぐらうた・おさしづ以外は目にしないと決め、入院生活を送るようになりました。
すると、部内教会の会長や信者さんが、入院している会長に様々な事情について相談に来るのですが、相談を受けた会長は、まるで現場を見ているかのように、次々と的確な指示を出されて、見事に問題が解決していったそうです。
原典にしか触れていないと、部内教会や信者さんのことが手に取るように分かるとのことでした。
しかし、ある日ふと差し入れにもらった雑誌に目を通した後から、全く部内教会や信者さんのことが分からなくなり、再び様子が分かるようになるまで、1ヶ月以上かかったそうです。

この話を聞くと、本当に信仰があれば知恵や学問はいらないのかもしれないと思ってしまいます。

うろ覚で申し訳ないのですが、確か教祖が言われた言葉にも、
「おふでさきさえ読んでおけば、他に何も学ぶ必要はない」
といった言葉があったと思います。

これは、現代では再現が難しく中々検証できないことなので、真偽がどうなのか気になるところです。


※後日追記「ひとことはなし」著:中山正善の中にありました。

「これさえ読んでおけば学問等はいらんものやで」
とは、母が教祖様からよく聞いたというお言葉。
教祖様には、世界の人々がおぢばにものを知るために、集まってくる日を、ありありと、心に映しておられたのであります。

お道には、学問はいらぬ、あっては邪魔だとは、その後よく、人々の口に出し、耳にする言葉であります。しかし教祖様は、
「これだけは読め」
と「おふでさき」をお示しになっています。学問不要とは全ての読み書ききがいけないと言う意味ではなくて、「おふでさき」を読んで、よくその真意を知るに足る信仰と教養まで不要とは言えますまい。




おまけタイム


どーも!今度こそ田植えで筋肉痛になると予想している男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

本日も田植えに行ってきました。

詳しく知らない方はこちら

今回田植えを行なった田んぼに、何かよく分からない生き物がたくさんいました。

それがこいつです。

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こいつが大量にいる田んぼに素足で入るのは、大変抵抗があると思うのですが、大量にいると気づいたのは、田んぼから上がった時だったのでセーフでした。

もし田植え前に気づいていたら、怖気付いていたかもしれません。


あっグロ注意入れた方がよかったですかね?テヘペロ


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!



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