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128.おふでさき概説 正冊と外冊 定義と立ち位置



はじめに


熱心に信仰する上に、教義勉強が好きな人は「おふでさき概説」を読む機会があるかもしれません。

しかし、本書を読む機会がなく一生を終える信仰者の方が圧倒的に多いと思います。

そこで、僕も気軽に「おふでさき概説」を復習できるものが欲しいと思いましたので、要所をシリーズにしてまとめたいと思います。

まさにnoteっぽい使い方ですね。

ちなみに前回の記事はこちら



正冊と外冊


二代真柱様はおふでさきを、正冊と外冊の二種類に区別しています。その違いは、

正冊
教祖がご自身で書かれた、本部で保管している17冊のおふでさき。
外冊
教祖がご自身で書かれた、副本(コピー)のおふでさき。
大部分は同じ内容だが、多少違った点もある。
全17号わたって残されているわけではない。
第2、6、10、11、16号には外冊がない。

このような違いがあります。
おふでさき概説で取り上げるのは正冊です。


おふでさきの定義及び教義書としての位置

おふでさき第一の定義

第1号の21、22、23のおうた
このよふは りいでせめたる せかいなり
なにかよろづを 歌のりでせめ  1-21

せめるとて てざしするでハ ないほどに
くちでもゆハん ふでさきのせめ 1-22

なにもかも ちがハん事ハ よけれども
ちがいあるなら 歌でしらする  1-23

これがふでさきを始められた宣言、思召であると解釈出来る。(中略)
甲の人、乙の人、丙の人が取り違えていた事を筆先で知らし、せめて、それらの
事柄が内容として盛られているのだと、甲なり乙なりの人に直接お話があるのではなくて、これを筆先に記していってせめるという方法をもって、つまるところ、万人にこれらの台を借りてお諭しになっているのだと、これが第一定義と申せるものなのである。

第二の定義

「………そこでこれまでどんな事も言葉に述べた処がわすれる、わすれるから筆先にしらしおいた、筆先といふはかるいやうでおもい、かるい心もってはいけん、話の台であらう とりちがひありてはならん」(M37.8.23)
こういう訳である。これが第二の性格である、第二の定義であり、そして大切な点である。所謂話の台である。

第一の定義:「ふでさきのせめ」であること
第二の定義:「話の台」であること


心得違いがあった者に直接諭すのではなく、筆で書き残すことによって、世代を越えて万人が目にすることができます。

おふでさきには当時の時代背景から、「このおうたは、○○(個人名)に向けてのもの」と、個人に向けられたものがいくつもあります。

もし個人に向けてであれば、直接言えば済む話しですし、忘れるから筆に記したという理由であっても、個別に書いて渡すことも出来たと思います。

それをわざわざ、皆が読めるように筆先に記したということは、決して他人事ではなく、後世を生きる僕達にとっても、心に留めておくべき普遍的な教えだと言えます。


教義書としての位置


現在私どもが考えているおふでさきの位置と言うものは、教規によって言うならば、おふでさき、おさしづ、そしてみかぐらうたを原典と呼んで、その原典を根拠として、教典というものを教会本部の名において編纂する、と、こう規定されているが、あくまでも親神様の思召をお伝え頂いている芯となるものは、この宣言によって明らかな如くにおふでさきである。同時に内容からも、はっきりと宣言されている。


「あくまでも親神様の思召をお伝え頂いている芯となるものは、この宣言によって明らかな如くにおふでさきである。」

これは、現在私ども(二代真柱を初めとする当時の先人達)が考えているおふでさきの位置です。

原典を列挙する順序から、おふでさきを一番重要なものとして置いていることが分かります。

少し脱線しますが、ここで少し気になる所は、

おふでさき、おさしづ、そしてみかぐらうたを原典と呼んで

と「おふでさき」「おさしづ」「みかぐらうた」の順番となっている点です。

現在言われている原典の順位は、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」の順なので、この順番が入れ替わっている事に違和感をを覚えました。

どなたか理由を知っている方が居られたら教えて下さい(切実)

「同時に内容からも、はっきりと宣言されている。」

この内容とは、先ほど挙げた、おふでさきの定義のことだと思います。


二代真柱は、この章の最後の締めとしてこのように述べられています。

たとえ、話としては個々の場合に触れた度毎になされたものであっても、全巻17号を通じて、一つの筋書きというか、教理体系というものが知らず識らずの間に感じた取られるのである。

ということて、今日はここまでです。


おまけタイム


どーも!この圧倒的な睡眠不足の中献血に行った男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

本日は教会本部の前に献血バスがやってきましたので、献血をしてきました。
その際、普段の献血と違って新たな発見がありました。

まず、今回始めて非接触型の体温計を使ったのですが、仮設テントの中で使った為でしょうか、37.3℃と表示されました。

「えっ熱があったら献血できないんじゃ無いの?っていうか熱あるんや!」

と思っていたら、測ってくれた看護師の方が

「テントの中暑くて、こいつ調子悪いんですよ、体調大丈ですか?もし大丈夫なら向こうへ移動して下さい」

と普通に献血させてくれました。

献血の許可がおりたことは有難かったですが、体温を測る意味あった?って思っちゃいました。

非接触型の体温計はまだまだ改善の余地ありです。
※一応不安になったので、この後脇タイプの体温計で熱を測りましたが、平熱でした。

そして今回、睡眠時間約4時間(細切れ)で献血に臨みました。

感想としては、
血を抜かれている時に、あんなに心地良く意識が薄れていったのは初めての経験でした。

もっと血を抜かれていたいと思える程心地よかったので、病みつきになってしまうかもしれません。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!



サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!