5.身体が動かなくても、ベットで寝たきりでも、人を助けることが出来る

身体が動かなくても、ベットで寝たきりでも、人を助けることが出来る

人間は、互いに助け合う為にこの世に存在しています。
そして、人助けを行うことが、人生における最上の目的の一つであり、真に幸せを手に入れる方法だと思っています。
詳細は過去記事にて

あの孫正義氏も
「情報革命で人々を幸せにすること」
という志を持って、仕事に挑んでいます。

しかし、
「自分で歩くことが出来ない程身体の弱った老人」
「身体に障害が有り思うように動けない人」
「知的な障害を持っている人」
「ハゲている人」
このように、常時助けを必要としている人達は、一見すると助けられてばかりで、助ける側に回ることが出来ません。


人を助けないと幸せになれないなら、常時助けを必要としている人達は、幸せにはなれないのでしょうか?

実はそのことについて、ある教会長さんの自伝に、その答えが書いてありました。
(申し訳ありませんが、どの教会長さんの自伝だったか忘れてしまったので、記憶を頼りに書きます。記憶も髪の毛と共に抜け落ちるのですね。泣)

その自伝に出てくるA会長は、人助けに奔走していたところ、自分も病で倒れ、医者からもう助からないとサジを投げられてしまいました。
「もう俺の人生も終わりか」と思っていたところ、上級教会の会長が様子を見に病院まで来てくれました。
そしてその上級教会の会長はこう言いました
「お前は教会長として、死ぬまで人助けをせないかん」
助けて貰えると思っていたのに、死ぬまで人助けをせよというのは、A会長にとって厳しいものでした。
それでも、もう身体も自由に動かないのにどうすれば良いのか聞くと。
「今日から毎日、お前の診察に来てくれる医者や看護婦に『昨日よりもずいぶん楽になりました、ありがとうございます』と言いなさい」
と言われました。
続けて、
「医者や看護婦は、いつも患者が苦しい辛いと言うのを聞いて、しんどい思いをしている。だから、お前は弱音を吐かず『ありがとうございます』と言って医者や看護婦の心を助けなさい」
と言ったそうです。
それからというものA会長は、医者や看護婦が来る度に
「昨日よりも楽になりました、ありがとうございます」
と言い続けたそうです。
検査の数値も悪くなり、楽になるはずが無いのにそんなことを繰り返し言うものですから、医者も看護婦も不思議に思ったそうです。
結果、このA会長はその後、余命宣告をされた日を過ぎても出直す(亡くなる)ことなく、病気を完治し無事退院されました。

このA教会長は、普通の人がイメージするような人助けを行っているわけではありません。
「ありがとうございます」という言葉が、医者や看護婦の心を助け、自分も助かったという話しです。

つまり人助けは、目に見える物理的なモノだけではないということです。

助けられた方が「ありがとう」お礼を言うことで、助けて頂いた人の心を助けていることになり助ける側と助けられる側で、すでに人間同士の助け合いが成立しているのです。

例えば、赤ちゃんは基本的に何も出来ず、助けられてばかりですが、笑顔で喜ぶ姿は周りの人を幸せにします。
これは何も赤ちゃんだけに限った話しではなく、どんな人にも当てはまることです。

つまり、健康な人が人助けをしているつもりであっても、その人助けの結果、御礼を言われたり、喜ぶ姿を見ることで、自分の心が相手から助けられているというわけです。

身体が自由に動かなくても、上手く言葉が話せなくとも、「ありがとう」という言葉、「嬉しい」という態度は、相手を幸せにし心を助ける、最も簡単で絶大な効果を持つ人助けなのです。

人助けの原則はギブアンドギブです。
しかし、それは
「目に見える世界(現代人が科学的に把握しているだけの世界)」
だけの話しであって、
「目に見えない世界(現代科学ではまだ分からない世界)」
では、実はたくさんのモノを、私達は神様や色々な人から頂いています。

人助けと言われても、何をしていいか分からないという方は、まず、親しい人に対して、優しい言葉や態度で接するよう意識してはいかがでしょうか。

その姿が、神様が望まれている「人間同士が助け合う姿」の一つだと私は思います。


閑話 勘違いしやすい、人を助けて我が身助かるの意味


「人を助けて我が身助かる」
これは、天理教では超有名な言葉ですが、
「情けは人のためならず」
と同じような意味だと勘違いされている方が多くいると思います。

「情けは人のためならず」とは、人を助けたら巡り巡って自分も助けてもらえるので、情けは人のためではなく自分のためにもなる。という意味です。
「人を助けて我が身助かる」はこれとは全然違う意味です。

これは言葉を補うと意味が解りやすくなります。
「人を助けて(心が神様の思いに沿った、澄み切った心になっているため、心が助かった状態になり、その結果)我が身助かる」
ということです。

天理教の人助けは、病気を助けることが目的ではなく、心を助けることが最大の目的です

心が助かれば、病気や苦難から助かることに繋がりますし。

もし、病気が治らなかったとしても、その結果に神様の親心を感じ(時間がかかったとしても)、喜べることになるということです。
心が助かることが最上の助かりであり、あくまで病気や苦難から助かることはおまけなのです。

ですので人を助けると言う行為そのものが、神様の思いに沿った心になっているから出来る行為であり、その状態になっている事が、すでに我が身(我が心)が助かっているということになるのです。

おまけタイム

どうもー、ハゲのハゲによるハゲの為の記事を書き続けたい男、ほこりまみれの信仰者こーせーです。
※まだハゲてません

下ネタが可能なら、僕の記事にも幅が広がるのですが、その分野には僕より優れた先人がたくさんいますので、そちらにお任せします。

さて、若白髪があるとハゲないという都市伝説が、昔流行らなかったでしょうか。
学生の頃、私は密かに若白髪を生やして下さいと神様に願っていました。
(そんな回りくどいことをせず、ハゲさせないで下さいと願わなかったのは、私の人生でワースト3に入る失態です)

結局、若白髪は生えてきませんでした。
しかし、白髪が生えてハゲると言う最悪の結果を迎えることが無くなったと思えば、とても有り難いことだと喜べるようになりました。

皆さんも喜び上手の私を見習っていただけたらと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!