174.本席飯降伊蔵に関する小噺 ー教祖に初めてお会いするまでの経緯ー


はじめに

飯降伊蔵氏が教祖のことを知ってから、初めてお会いするまでの経緯が、ちょっと面白かったので紹介させていただきます。

教祖の「天理教教祖伝逸話篇に載っていないお言葉」も入っています。

少し古い文体ですので、読みにくいかもしれませんがご了承下さい。

 元治元年長男政治郎殿出産ありてより、里子様産後の肥立ち宜しからず、日夜病床に横たわりてひたすら薬石に親しまれしは勿論、他人のこれがよしと言うものあらば、祈祷占いは言うも更なり、草根木皮の端に至る迄、採り用いられしも、その効遂に現れず空しく懊悩に日を暮らされしが、偶々知人が来たりて見舞うあり、其尚ほ甚だ重病なるを目撃し、又殆どあらゆる療養の手を尽し足も効顕なきを聞きて、ふと今見舞いに来る途中の煮売屋にて休憩せし時、雑話中に店の婆の庄屋敷村に、天理さんとなん唱て産病の不思議にも助かる神様の現れ給しと言いしを思い出し、これを伊蔵先生に語るに、先生の
「そんな神様の事は少しも気が付かなんだ。庄屋敷の中山さんならば、家の向ひの鍛冶惣の嫁さんの実家(教祖の御三女春子様の事を指す)であるし、親切に日々見舞いにも来て下さる人だから何とか話がありそうなものだ」
と怪しみつつ居られしも、客人の
「いや、確かに先程その話を聞いて来たのだから、まあ一度行きて見よ」
と励まされしより、念のため春子様に実否を御尋ねするに、果たして事実相違なき旨の答えを得たり。
「そんな事なら、何故早く知らせて下さりませぬ」
先生は何時になく不平を言われしに、春子様はにっこりこれを制しつつ
「それはごもっとも千萬の仰せなれども、御婆様の仰には、このことは内から言うのではない。外から自然に知れて来るほどに、広告がましきことを言うてはならぬとの御事に、妾も充分に気は付き居たれど、御婆様のお言葉に従いて言わなかったのであるから、何卒悪しからず思うて下さるな」
と言われしかば、不思議なる事もあるものかと、先生は小首を傾けつつも、直ちに其足にて庄屋敷村へ急がれしなり。
出典:みちのとも 明治44年5月号
※読み辛い部分があったので、一部現代仮名遣いに直しています。

飯降氏が教祖にお会いするまでに、こんなやりとりがあったとは面白いですね。(興味深し)

さて、ここで登場する教祖のお言葉は
「このことは内から言うのではない。外から自然に知れて来るほどに、広告がましきことを言うてはならぬ」
このお言葉です。

これは中々のインパクトのある発言だと思います。

内=信仰者と解釈した場合、「にをいがけ」を否定されている言葉ではないかと思ったからです。

実はこのお話は、初代真柱中山真之亮氏も飯降伊蔵氏本人から聞いたお話として、書き残しておられます。
そこには、
「梶本翁云エルニハ 他人ナラバ知ラシモスルナレトモ親族ノ間故ニ知サナカッタト云エリ」

こちらでは、おはるさんではなく、梶本惣治郎氏と話されたと書いてあります。

この二つのお話の真偽の程は分かりませんが、「親族の間故に知らさなかった」ということは、「内から言うのではない」の内とは、親族のことを指していると考えられます。

当時の時代背景を考えてみても、まだ熱心に信仰するようになった人も少なかっなと思いますので、内とは親族のことだと考えてもおかしくありません。

ですから、このお言葉は「にをいがけ」を否定しているわけではないと思われます。


おまけタイム


どーも!Twitterの繋がりに感激している男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先日、TwitterのDMで、このnoteを読んでくださっている方から、本と資料を譲って頂けるというメッセージが届きました。

今は、そうして頂いたダンボール二箱分の大量の本と資料に、ちょっとずつ目を通しているところです。

その内、その資料に関係する記事も沢山書いていこうと考えています。

そんな質・量共に素晴らしい本と資料を下さった読者の方に、この場を借りて、改めてお礼を言わせていただきます。

本当にありがとうございました。
大切に読ませていただきます。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!









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