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259.この道は内から結構/\という道ではない ー梅谷四郎兵衛ー

はじめに


教祖から教えをよく聴かれた先人として、
仲田儀三郎
桝井伊三郎
山本利三郎
梅谷四郎兵衛

この4人が挙げられます。

この内の1人である梅谷氏に、現在どハマりしているので、しばらくの間、梅谷氏のお話をシリーズにし書いていきたいと思います。


梅谷四郎兵衛のお話ってどんな話?



梅谷氏のお話について高野友治氏は、

山本利三郎は、明治28年(1895)に出直し、桝井伊三郎は明治43年(1910)に出直し、本席飯降伊蔵は明治40年(1907)に出直しており、そのあと、人々は本当の神様のお話(教祖存命当時の)を聞こうと思うものは、梅谷四郎兵衛に聴きに行ったようである。

出典:先人の遺した教話 静かなる炎の人・梅谷四郎兵衛

このように述べれられています。

ちなみに、ここには載っていませんが、仲田儀三郎氏は明治19年(1886)に出直しています。

梅谷氏は大正8年(1919)73歳で出直しましたので、桝井氏が出直してから9年間は、多くの信者が梅谷氏のお話を聞きたいと思い集ってきた状況が想像できます。


また、伊橋氏が天研18号にて、

四郎兵衛氏の語る話は、例えば病のさとしといわれるような、自身の悟りを交えて語られるというものではない。「月日のやしろ」である教祖から聞かせていただいたお話、すなわち、神様を第一人称とする「神の話」「神の言葉」をそのまま伝えているところに特徴がある。

このように述べられています。

梅谷氏のお話は、
「神の言葉をそのまま伝えている」
こんな事を知ってしまうと、梅谷氏のお話を読まない訳にはいかないですね。



ふしぎが道


さて、ここからが今日の本題です。

今回紹介する梅谷氏のお話は短い内容ですが、

現在の天理教の「根本的な問題」

について核心をついている(と個人的に思っている)強烈なお話です。

このお話を読んだのは1ヶ月ほど前になりますが、強烈すぎて現在でもずっと僕の頭の中を駆け巡っています。

それでは早速紹介したいと思います。


ふしぎが道
この道は内から結構/\と言う道やない、世界から不思議/\と言うて成立ってくる道やで。



「この道は内から結構/\と言う道やない」
天理教を信仰している方で、この言葉を受け入れ難い方は沢山いるんじゃないでしょうか。

信仰者同士で
「ありがたいね」
「結構だね」
と言い合う事が道では無いと、はっきり言われています。

ですから、
陽気ぐらしのキーワード
「感謝・慎み・たすけあい」の「感謝」の部分を否定されているわけです。

このように聞くと、


「ちょっと待ってくれよ。感謝を否定されるなんて、そんなの俺の知ってる天理教じゃないよ。」


こんな声が聞こえてきそうですが、安心してください。

もちろん、このお話は感謝を否定しているお話ではないと思います。


分かり易くなるよう、この梅谷氏のお話に言葉を少し書き加えると

「この道は内から結構結構と言う(事を目指す)道やない」

つまり、
感謝を否定しているのではなく、
「感謝する事がゴールではない」

という意味合いだと考えるのが妥当です。


ですから、
「ありがたいね」
「結構だね」
「嬉しいね」
ということは外せない要素ではありますが、
内々で満足していては道にはならないということになります。


では、どのようにする事が道になるのでしょうか?

その答えになるのがお話の後半です。


二つの不思議


世界から不思議/\と言うて成立ってくる道やで。


ここでいう「世界」とは、「天理教信仰者以外の人(以下一般の方)」を指します。

つまり、
一般の方から「不思議だ」と言われるような通り方をすることで成り立ってくる道だと、梅谷氏はお話されているのです。


「なぜ不思議で成り立つのか?」

という問いに関しては後々書きますので、
まずは、どうすれば世界から
「不思議だ」
と言われるようになるのかを考えましょう。

僕は、天理教が世界から「不思議だ」と言われるものは、2種類あると考えています。


1つ目の不思議は、
所謂「奇跡」や「偶然」と言われる現象の事です。

「医者から治らないと宣告された病気が治った」
といった「これぞ奇跡」というようなものから、
「欲しいと思っていたものが、たまたま手に入った」
こういった巡り合わせの「偶然」に見えるものまでを含む、

「現実に起こってくる不思議な現象」


これが1つ目の不思議です。


2つ目の不思議は、
一般的に見て、理解できない行動や振る舞いをしている人です。

「なんで辛い仕事を楽しそうに出来るんですか?」
「あなたがいつも明るく振る舞えるのは何でですか?」
「誰にでも親切に出来るのはどうしてですか?」

このように、自分は普通に行動しているだけなのに、世界から不思議に思われる、

「共感されない不思議な心」

これが2つ目の不思議です。

以上の、
「現実に起こってくる不思議な現象」
「共感されない不思議な心」
この2つの「現象」と「心」が、世界から不思議と言われ、成り立っていくために必要だと思います。


不思議は副産物


不思議が必要だと言っても、不思議は、
「不思議な事をするぞ」
と思って現れるものではありません。


では、どうやったら不思議は現れるのでしょうか?


その答えは

「おつとめ」や「おさづけ」といった「祈り」
「人の為に」と思って行う「行動」

この「祈り」や「行動」に対して、
「現象」「心」が、
不思議として現れてくるのだと思います。


ですから、
「不思議は、行動や心の副産物」なのです。

料理をしている時に漂う「匂い」のように、形となって見える物ではありません。

そう考えると、
天理教の布教を「にをいがけ」と言いますが、
「祈り」や「行動」の結果として現れてくる。
「不思議な現象」
「不思議な心」

こういった「不思議」を「匂い」のように感じ取ってもらうことが、「にをいがけ」なのではないかと思いました。


不思議≠共感


不思議な匂いをかける際、一つ注意しなくてはいけない事があります。

それは、
「共感」を取りに行き過ぎない。
ということです。

不思議を取りに行く事は、相手の常識を超えていく作業になるので、必然的に共感を得る事とは反対の作業になります。

ですから、相手に理解出来るように丁寧に分かり易く伝えるという行為は、共感は得られますが不思議は手放すことになってしまいます。

「人前で話す際は共感する話をしましょう。」

といったよく聞く常識は頭から取り払って、

「共感なんか糞食らえ」

というくらいの気持ちで不思議を取りに行く方がいいんじゃないかと、個人的には思っているところです。


おまけタイム


どーも!最近妻から加齢臭がするかも言われた男
ほこりまみれの信仰者こーせーです。

実は、今住んでいる所から引越しまで二ヶ月を切ったのですが、何から手を付けたらいいのか全く分かりません。

【引越しのプロ求む!】

どうか僕に引越しの極意を教えてください。

ということで、今日のおまけタイムは手抜き気味に終わりたいと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


ほな!




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