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119.教祖が宮池に身投げしようとされたのも、「ひながたの道」だった

はじめに

稿本天理教教祖伝に、

ある時は宮池に、ある時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよいよ〳〵となると、足はしゃくばって、1歩も前に進まず、
「短気を出すのやない〳〵」
と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果たせなかった。

と、教祖が宮池や井戸に何度も身投げしようとなさったという記述があります。

この話を読む際に問題となってくるのが、
「教祖は立教以降「神のやしろ」となられてから人間心は一切無いはずではないのか」
という所です。

おふでさきに

いまなるの 月日のをもう ことなるは くちはにんげん 心月日や 12ー67
しかときけ くちハ月日が みなかりて 心ハ月日 みなかしている 12ー67

とありますとように、教祖の心は親神様の心です。

ではなぜ、親神様の心であるのに身投げしようとされたのか。ここに大きな疑問が残ることになります。

この件について天理教校研究所が立教179年3月に出版した「天研」第18号の中に掲載されている論文「『宮池の話の検討とその理解』伊橋幸江」に、とても腑に落ちる見解が書いてありましたので、簡単に要点だけ紹介させていただきます。



身投げの話を理解するには、出典を知ることがカギになる


宮池や井戸への身投げの話を理解するためのキーポイントは、
このお話の出典は何処なのか。
ということです。

このお話の出典と思われる伝承は、梅谷四郎兵衛「月日の心」の講話の中に出てきます。

梅谷四郎兵衛氏は、

「神の言はんこと言うやないで、神の言はん事を言へば理が欠ける。そこに神のはたらきはありやせんで」
「神の話と人間のする話とにはくいきがある、なれど神の話と人間の話をごっちゃにするから訳がわからん」

と言っており、教祖の話をされる際には、自分の悟りを全く加えずに話されていました。
ですから教祖の話を、神様を第一人称としてそのまま伝えていると言うところに特徴があります。

梅谷四郎兵衛氏の口から語られた、身投げの話を抜粋させていただきます。

「私は夫を立てれば神様の理が立たず神様の理立てたら夫の理立たんといふ、苦しい場合となりまして、池へ身を投げやうかと思ひました、それで夜の夜中に御門をソット明けて出まして、お宮の池へ出ましたところが、どん〳〵歩行(あるい)た身体がしやつきりとして、ドウしても進まれません。(短期出すのやない〳〵ほどに、返へれ返へれ、年の寄るのを待ち兼ねる)と耳元で神様が仰りました、私はあとへ返れば身体が動くけれども、向むけば身体が、しやつきりとして動かれませなんだのや」
と斯様な御咄聞かして頂きました。


「(短期出すのやない〳〵ほどに、返へれ返へれ、年の寄るのを待ち兼ねる)と耳元で神様が仰りました」
ここに教祖の親心が秘められています。


稿本教祖伝逸話篇123「人がめどか」に繋がる


この逸話は、
気の短い方だったとされる梅谷四郎兵衛氏が、陰口を言われたことに腹を立て、大阪へ戻ろうとした時、教祖の咳払いが聞こえ、「あっおやさまが。」と思った途端に足が止まり腹立ちが消え去ったという逸話です。

稿本天理教教祖伝逸話篇123「人がめどか」
教祖(おやさま)は、入信後間もない梅谷四郎兵衞に、
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
と、お諭し下された。生来、四郎兵衞は気の短い方であった。
明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」
との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。
足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。「あ、教祖(おやさま)が。」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。
翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖(おやさまがお出ましになり、
「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで。」
と、仰せ下された。

この状況は、教祖が宮池に身投げをしようとした時に、「短気出すのやない」と耳元で神様が仰ったという情景と重なります

この身投げの話は、梅谷四郎兵衛氏以外が話された記録以外には残っていませんので、教祖が梅谷四郎兵衛氏に対して話された話だと言う事が分かります。

つまり、それらの状況から考えて身投げの話は、
教祖が梅谷四郎兵衛氏に対して示された「ひながたの道」だった。
ということではないでしょうか。


誰に対して話されているかが大切


僕はこの論文を読んでから、時代背景や誰に対してのお話なのかを知る事が、教祖の親心を感じる上で大切な事なのだと知りました。

実はこのように、その人に向けている話は他にもいくつかあります。

例えば、以前の記事でも書かせていただいたのですが、「稿本天理教教祖伝逸話篇115 おたすけを一条に」のなかで、教祖が「道は、辛抱と苦労やで」と仰る場面があります。

ちなみにその記事はこちら

「道は辛抱と苦労」と聞いて、万人が勇むことはありません。
この言葉で、
「うぉー頑張るぞー」と勇む人もいれば、
「そんな厳しすぎる」と落ち込む人もいると思います。

昨日書いた記事の内容にも通じますが、
行動だけを見て判断すると、神意を間違えてしまう可能性があるということを、忘れないようにしなくてはと思う所存です。

※論文「宮池の話の検討とその理解」は本当に面白い論文でした、僕はほんの一部分しか紹介できていないので、もし読める機会がある方は是非読んでみて下さい。


おまけタイム

どーも!蒟蒻より、蒟蒻ゼリーが好きな男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

二つの同じような物を比べて、どちらが好きかを選んでいきたいと思います。

・「おしるこ」と「ぜんざい」なら、「おしるこ」の方が好き
・「芋焼酎」と「麦焼酎」なら、「芋焼酎」の方が好き
・「漫画」と「小説」なら、「漫画」の方が好き
・「まりも」と「アフロ」なら、「まりも」の方が好き
・「カレー」と「うん○こ」なら、「カレー」の方が好き
・「ソフトクリーム」と「う○ん○こ」なら、「ソフトクリーム」の方が好き
・「禿げる」と「太る」なら、「禿げる」方が好き
・「じっちゃん」と「ばっちゃん」なら、「じっちゃん」の名にかけて好き
・「お金」と「現金」なら、どっちも好き

永遠に終わらなさそうなので、この辺で終わりたいと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

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