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チンゲン革命(10)

【前回のあらすじ】
勤行唱題はするものの、その他の創価的な活動がない…この特殊な環境は、若本の創価離れを促すことになった。


先に小学校の環境について概観しておくと、あまり品の良い環境ではなかった。

具体的には聞かされていないのだが、別のクラスでかなり酷いイジメがあったらしい。
教員の入れ替えなど、子どもにも異常と分かるくらいの組織改編がなされたのを覚えている。
校内暴力のように派手な混乱ではなく、何とも陰湿で不穏な空気に包まれている感じだ。

5年生だったある日、私は帰宅時の通学路で中学生数人に呼び止められて殴られた。全くの原因不明だ。
友人は、道を歩いていたら何者かにエアガンで撃たれた。これも全くの原因不明。

どう表現したら良いのか…。とにもかくにも、この手の事案の一つひとつがしょうもないのである。
「集団でどこかの学校に乗り込んで乱闘した」のような、華のある感じではない。
年下をイジメるとか、離れたところからエアガンとか。
「全体的に品位や知性の程度が低い」それが私の地元を適切に表現している。

それを自覚したからかは分からないが、中学生になると私は「変なことに巻き込まれない人生を送りたい。そのためには、それなりに勉強をしよう」と思い始めた。
学校の授業を真面目に受け、予習復習を意識し、部活にも参加した。
ほどほどに同級生とも遊んでいたので、結果的に創価の活動をするだけの時間が無くなった。
彼女こそいないが、リア充寄りの中学生活を送ったと思う。

どういうわけか、親も組織活動をしろとは一言も言わなかった。
生まれついて以来、こんなにも組織の色が薄まったのは初めてのことだった。
そのお陰で、私は創価の外側を知ることができた。それは私が創価離れをするきっかけになったと思う。

それまでの私は、池田氏の著作以外では感動できない状態だった。
これが「本当に感動できなかった」のか、「感動したら負けだと思っていた」のかはちょっと微妙なところではある。
しかし、いずれにせよ一般の作品には興味も感動も覚えなかった。
何を読んでも「池田先生の方が凄い」と思う、あるいは思おうとするわけだ。

他の著作を読む時は感動しまいと努力し、池田氏の著作を読む時は感動しようと努力する。
自分のことながら、異常な思考様式だと思う。

この状況を打破するきっかけの一つになったのが、ダウンタウンだった。
彼らを嫌いな人もいると思うが、ここは一つグッと堪えて続きを読んで欲しい。

前述の通り、私は「池田氏以外の誰の作品に心を動かされたら負けだ」と思っていた。
しかし、ダウンタウンのコントとトークを観た私は、笑いを我慢できなかった。
心を動かされたのである。

それまでの私にとって、面白いものと言えば、池田氏がスピーチで放つギャグだった。

創価で生まれ育ったからだろうか、いつの間にか私の中で池田氏は何でもできるスーパーマンのような存在になっていたわけだ。

「小説も一流、スピーチも一流、ギャグも一流…」のような見方だ。
また、「池田氏の良さが分からない方がおかしい」という観念もあった。
本作の中で「親とは違い、私はそこまで池田先生を持ち上げることができなかった」との旨を書いたが、その私でさえもこの有り様であった。

そのように、池田氏のギャグでしか笑わなかった私にとって、ダウンタウンの登場は青天の霹靂だった。

今にして思えば、池田氏のギャグは「先生が面白いことを仰ったら、いつでも笑えるようしておこう」という心の準備あっての笑いであり、要するに愛想笑いだった。
しかし、ダウンタウンは違った。
「池田先生より面白いことを言える人はいないはずだ。俺は認めないぞ。」と思っていても、笑わされてしまうのだ。

数年前まで、ダウンタウンらは年末に「笑ってはいけない〇〇」という特番をやっていたが、それよりずっと前に私は一人で「笑ってはいけない若本」をやっていたわけだ。

自ら心を動かそうとしたのではない。
他者によって心を動かされた。
そんな経験を初めてしたのだから、衝撃は大きかった。

ところが、この笑いにはやや裏があった。
ダウンタウンの笑いの全てではないのだが、「弱い者いじめ風の構造」を用いた作品が多いのだ。
これが私にとって大いに問題となった。

前回までに書いた通り、私自身がイジメを受けていたので、イジメそのものを許容しようとは全く思わない。むしろ、強く嫌悪する方だ。
それなのに、ダウンタウンによるイジメ的文脈を用いたコントを見て笑ってしまったのだ。

この時、私は無意識に近い部分で「あー、自分の道徳的潔癖が崩れた」と感じていた。
読者は忘れているかも知れないが、日蓮正宗にせよ創価学会にせよ、その教えは表向き「清く正しくあれ」というものであった。
それを真に受けていたので、私も清く正しくあろうとし続けた。
それが中断させられたのだ。

ダウンタウンの作品で笑った私は、間接的にイジメに加担したような気持ちになり、心が汚れてしまったような感覚になった。
その際、私は「こんな番組を観ていてはダメだ」というような、自重自戒の方向には進まなかった。
道徳的問題を多少気にしながらも、イジメ的な構造を含むところのダウンタウン的な笑いを楽しむことにしたのだ。
宗教に由来する潔癖性を捨てて、俗世的な快楽を選択したということである。
これはつまり、自分の意志によって正宗/創価的な価値観を相対化したということだ。
この「信仰の相対化」というのは、いわゆる洗脳から抜け出すために極めて重要なプロセスだと思う。

もちろん、今の私だって何かの洗脳を受けている可能性はあるのだが、何者かを絶対視することはなくなった。
これは生きる上での絶対的指針を破棄したということであり、この前後では世界の見え方がまるで違う。

このような信仰の相対化を促すチャンスは、他にもあった。それが受験である。
そこについては次回書く!

何か真面目くさった書き方しててアレだな。
本当はもっと下ネタとか混ぜ込みたいんだよ。混ぜ込みわかめ。

とりあえず!また次回、お会いしましょう!


【オマケ…そのうち外出しするかもだけど】

以上は私が生まれつきの創価であったことによる現象であって、いわゆる1世信者は真逆なのだろう。
1世信者の場合は、「絶対的指針がない自由な精神状態」というのが初期状態であり、その後に思考的な制限を受け入れるようになったのだと推測している。

これは一見すると【自由から不自由になった】ということなのだが、おそらく当人はそのようなネガティブな意識を持っていない。

自由というのは、思考の根拠や人生の指針が定められていないということなので、正解がない。
自分がどこに向かっているのか、どこに向かうべきなのかが分からない。
自由といえば聞こえは良いが、行く宛もなく砂漠を彷徨うような不安が常につきまとうわけだ。

そんな中で、例えば創価のような団体が「正義」や「永遠」あるいは「絶対」などといった「精神的な拠り所となる言葉」を交えながら、思考の制限を提示してくる。

そんなものを受け入れてしまえば不自由になる。
しかし、それは自由という名の不安に終止符を打ち、安心を手に入れることでもあるのだ。
その安心感は、確かに一般社会が提供しないものだ。
1世信者にとっては、揺らぐことのない指針になるのではないか。

それを幸せと呼ぶところまでは好きにしたら良い。しかし、それを自分の子どもや他者に押し付けるのは大いに問題である。
自分の子どもを信者にしたいと願う親は、そのような押し付け行為が構造的に無理であることを理解した方が良い。
どうしても押し付けるにしても、やり方を考えるべきだ。

親は【自由=不安】を知っていたからこそ、その宗教と接触することで【不自由=安心】を実感したわけだ。

子どもはどうだろうか?
生まれつきで入信させてしまうと、親が経験した不安を知ることなく生きることになる。
それはつまり、「今が安心であること」を認識できないということだ。

ここに、親子間における決定的な思考の差分が生じる。
この差を埋める方法は一つしかないだろう。子どもを自由にすることだ。

自由になれば、子どもは精神や行動様式の拠り所を失い、不安の何たるかを理解するかもしれない。
不安から逃れるため、安心を求めて宗教の力を借りようとするかも知れない。
そうなって初めて、親は子に対して不自由という名の安心を提案すれば良いのだ。

ところが、親は子どもを自由になどできるはずがない。
期待した通りにその宗教を求めてくれれば良いのだが、他の何かに心を奪われ、その宗教を必要としない可能性があり、それを恐れるからだ。

「子どもを自由にした結果、この宗教に戻って来なかったらどうしよう…」そんな不安に勝てないのだろう。
しかし、それが何よりもの答えであることを知るべきだ。

「この子を自由にしてしまったら、創価学会に戻ってこなくなる。」
そう思うなら、創価学会には大した魅力がないというだけのことだ。

本当に魅力があるかどうかが重要なのではない。
【「魅力がない」と感じているのは親自身】
このことが重要なのだ。

親自身が「この宗教、実は良いものではない」と潜在意識的に理解しているわけだ。
そんなものを愛する我が子に押し付けるのだから、どうかしてるとしか言いようがない。

もちろん、これは創価学会に限らない。
日蓮正宗でも顕正会でも日蓮宗でもエホバの証人でも何でも良い。
あるいは「良い学校に行くべし思想」や「子どもは親を敬え思想」でも良い。
親が子に押し付けたいと思うXを当てはめれば良い話だ。

そんなに押し付けたいならば、親である貴方自身が姿で示せば良い。
子どもは楽しいことが大好きなのだ。
親自身がその宗教を心底から楽しんでいれば、子どもは勝手に真似をしたくなる。
真似てくれないということは、親自身が楽しそうにその宗教をやれていないということだ。

自分が楽しめないものを子どもに押し付けたって無駄だよ。

これは勉強も同じことだぞ。
子どもに勉強させたいなら、まずは親がやれば良い。
親自身が勉強を嫌っているのに、子どもに勉強しろと言ってもやるわけがない。

子どもに勉強させたいなら、親自身が読書でも何でも良いから勉強っぽいことを楽しめば良いのだ。
それが楽しそうに見えれば、子どもは勝手に真似して勉強をするようになる。

「うちの子は勉強しないのよ」と言って子どもの文句を言う親がいるが、高確率で親がそもそも勉強をしたがらない。
その手の業界にそれなりに長くいた立場から言うが、これはほぼ真理だ。
勉強を好む生徒の家庭環境を観察して来たが、多くの場合は親も何らかの勉強を好んでいる。

話を横道に逸らせたが、宗教にせよ勉強にせよ同じである。
どうしても親の好きなことを押し付けたいならば、親自身が楽しむ姿を子に見せることだ。

このチンゲン革命は、「親の宗教との関わり」もテーマになっているのだけど、思うところがあったので書いておきました。

では、今度こそ次回に。アディオス!

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