見出し画像

のづけはんとうのとどわら(べっかいちょう)
油絵 F3 キャンパス 横273×縦220 2015制作

根室海峡にエビの形で突き出た細長い半島があります。

潮流によって運ばれた砂レキが堆積し、延長26kmにも伸びる日本最大の砂嘴(さし)が作られた野付半島です。

野付半島

この半島は途中まで車で行けるのですが、入口は標津町からの一か所しかありません。

半島の8割は別海町の自治体になっています。野付崎に向かって走ると、右手は野付湾、左手は根室海峡で、幅が30mしかないところもあり、晴れた日には最高のドライブコースになります。

北方領土の国後島まで16キロしかありませんので島が大きく見えます。
この半島の特徴は「トドワラ」で、江戸の中頃までトドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの樹種から成る原生林があったといいます。
しかし地盤沈下によって海水が浸入し、木々が立ち枯れを起こして生まれたのがトドマツの枯れ木群です。
荒涼とした景観を作り出しています。

この絵を描いたのは2015年です。その後も訪れましたが、すでにトドワラの情景は変わっていました。枯れ木ですから倒れて本数が少なくなっていたのです。

別海町の旅 (はじまり)

別海町

酪農と水産を基幹産業とした町で、特に畜産は牧草地面積、乳牛飼養戸数・頭数、生乳生産量などは日本一のレベルです。

しかし、ここまで来るには長い歴史がありました。

伊能忠敬の蝦夷測量は、別海町のニシベツ(西別)が最終地点でした

蝦夷の時代には、野付場所として漁業で開けた町でした。
野付の支配人で秋田出身の加賀屋伝蔵が安政年間に野付付近に開墾し畑作を行っていたといわれています。

ところが、根室地方は漁期だけに入地し永住が少なかったことから、明治に入り開拓使は明治3年に漁場持ちに命じて、永住して漁業を営む者を募集し、野付へ10戸移住させました。

しかし、内陸は植民地区画がなされたまま未開状態が続き、北海道Ⅰ期か拓殖計画が終了した後も尚第二期拓殖計画が行われ、手厚い保護が加えられたため、移民は急激に増えました。
それでも冷害・凶作が続き、農業政策の転換を迫られた結果、乳牛を主体とする主畜農業に転換させる根釧原野農業開発五か年計画が昭和8年から行われることとなりました。

別海町パイロットマラソン

戦後は、昭和30年頃から床丹原野に国家プロジェクトで機械開墾のパイロットファーム(試験農場)事業が始まり、酪農近代化への第一歩が踏み出され、昭和48年からは国家プロジェクトとして935億円余の巨費を投じて、新酪農建設事業がスタートし農業施設・機械の大型化、近代化が一層進行し全国一の酪農王国として発展を遂げることとなりました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?