見出し画像

【四刷重版出来記念企画第二弾】櫻井義秀・中西尋子『統一教会 日本宣教の戦略と韓日祝福』第四刷まえがき 「安倍元首相銃撃事件と統一教会への対応をめぐる一考察」全文公開:第3回(全3回)

 櫻井義秀・中西尋子『統一教会 日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の2022年8月重版時に加筆された「まえがき(第四刷)安倍元首相銃撃事件と統一教会への対応をめぐる一考察」を全文公開いたします。

 「まえがき(第四刷)安倍元首相銃撃事件と統一教会への対応をめぐる一考察」は、2022年7月8日の安倍晋三元首相銃撃・殺害事件および容疑者供述の報道後になされた統一教会と政治の関係をめぐる議論を受けて、事件の経緯、容疑者の家族と統一教会の関係、二世信者の問題、統一教会と自民党の関係、宗教法人法などについて整理し、7月19日に緊急脱稿したものです。
 今回もまた、先に公開した「第三刷にあたって」と同様、現時点では電子版に収録されておらず、読者の便と社会的意義を考慮し、ウェブ上で広くご覧いただけるようにしました。書籍版で16頁の分量を3回に分けて公開いたします。今回はその第3回目(最終回)です。
第1回はこちら
第2回はこちら

5 統一教会問題はいかに解決されるべきなのか

 テロは絶対に許されない。テロリズムは、要人殺害から無辜の市民の殺害まで対象は広範にわたり、政治的・思想的目的のために人々に恐怖を与え政治体制に打撃を与えようとする暴力である。今回、統一教会に打撃を与えるために安倍元首相を殺害したというのであれば、テロリズムに他ならない。約1年前から銃や銃弾を手作りし、試射で精度を高めていた計画性も往年の新左翼過激派による爆弾テロを彷彿させる(朝日新聞7月11日付)。

 私自身は山上容疑者の家族や人生の経歴について同情を禁じえないが、安倍元首相の命を奪う暴挙は絶対に許されるものではない。いかに社会的に意義のある主張であっても目的のために暴力的手段も排除しないという行動主義は、逆の結果を招くだけである。歴史的には昭和7年の五一五事件や昭和11年の二二六事件は、貧困問題や外交問題を解決することなく、治安や体制維持のための軍事的権威主義体制を生み出す契機になった。統一教会問題に関しても同様の事態が進むのではないかと危惧している。

 今回の事件においても、マスメディアは事件後の1、2週間は統一教会問題を注視し、山上容疑者の公判の進行に合わせて逐一報道は継続されるだろう。しかしながら、大手新聞やテレビ局のように資本(出資者や広告)や記者クラブなどに拘束されたマスメディアでは、統一教会と自民党との関係を詳細に報道し、質すまでの報道には限界がある。フットワークが軽いネットニュースやSNSの方が息の長い、本質に迫るニュースを提供できるかもしれないが、統一教会側からスラップ訴訟を起こされ、息の根を止められる可能性もある。

 当の自民党だが、選挙に勝ち権力の中枢にいることを党の最大戦略としている以上、支援者や後援者との関係において宗教団体への対応や宗教行政を根本的に変えることは考えにくい。むしろ、自民党としての宗教団体との付き合い方を反省するよりも治安強化の施策を打ち出す可能性が高い。民主主義を破壊するテロに屈しないというスローガンの前に、山上容疑者が提起しようとした統一教会問題はかすんでいくのではないか。根本的に問題を捉えようとするほど、歴史家や政治学者にとって個別問題に拘泥しすぎることは本質をはずすように感じられるものであり、それは大手メディアが好む論調でもある(保坂正康「言論への暴力連鎖の歴史」朝日新聞7月10日付、宇野重規「暴力で意思表明民主主義の敗北」朝日新聞7月17日付)。

 では、山上容疑者はどうすればよかったのか。孤立無援と感じられる状況において支援は得られなかったのか。他に社会問題のアピールを行う手段はなかったのか。彼自身においてはなかったという彼自身の弁明しか供述には見当たらないのだが、現実にはいくらでもあった。

 筆者は本書刊行後に『カルト問題と公共性―裁判、メディア、宗教研究はどう論じたか』(櫻井2014)を刊行した。そこで論じたように、統一教会による霊感商法や多大な献金要請を受けた損害は、民事の損害賠償訴訟によってかなりの部分を回復することが可能であり、既に違法行為として判例となっている。信者が行う宗教行為としての献金については、一般市民対象の霊感商法のように消費者保護法や特定商取引法によって規制することは難しいものの、1987年に結成された全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士たちによって返還交渉や訴訟が続けられている。年に2度の集会では被害者や元信者も参加して統一教会の活動実態の報告や、政治家への警鐘の出し方、被害者の回復について情報交換がなされてきた。こうした地道な活動によって統一教会の活動が抑制されてきたのであり、公共的な価値観とカルト問題対応の実践的方法が社会に普及してきている。

 また、私は『カルトからの回復―心のレジリアンス』(櫻井2015)を刊行し、被害者や元信者が統一教会離脱後のこころの𨻶間を自助グループや支援者によって時間をかけてうめていく過程をも明らかにしている。金銭的・精神的ダメージの回復にかかる時間は人さまざまであるが、ライフワークとして心の回復に務める人たちが少なくない。山上容疑者がこのような人たちや相談機関と出会っていれば、今回のような事件に至らなかった可能性はある。

 もとより、統一教会による金銭的被害や人間関係の崩壊、人生の喪失感といった膨大な問題に対して対応可能な弁護士連絡会やカウンセラー、自助グループや支援者の対応能力は限られたものである。しかしながら、このような活動が着実な成果を上げていることを多くの人々に知ってもらいたい。そのうえで、山上容疑者の孤独が支援活動のセーフティーネットから漏れたケースであることをマスメディアからは冷静に報じてもらいたいと考える。

6 統一教会に対する宗教法人の認証・解散

 日本では政教分離を厳格に理解している人が多いために、宗教団体が政治に介入することや政治家が宗教団体と関係を持つことに対して違和感や異議を唱える人が少なくない。

 日本国憲法第二〇条「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。二 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」を素直に読めば、宗教団体による権力行使や行政機関による宗教活動の禁止を定めたものと解釈できる。

 しかし、政府の公式的見解として、権力行使とは国や地方自治体が持つ立法権や課税、行政統治権のことであり、宗教団体を母体とする政党や宗教団体から推薦・支援を受けた個人が国会議員や地方議会議員になること自体を妨げるものではないと解釈されている。そして実際に、自民党に限らず多くの国会議員が宗教団体を広範な支持者として遇している実態がある。そして、国会や地方議会が宗教活動を行う政教分離の原則に反したかどうかについては、目的効果基準が適用されている。すなわち、行為の目的が宗教的意義を有し、行為の効果が特定宗教に対する援助または干渉等になるような行為であるかどうかを吟味するのである。

 こうした憲法理解や政教分離にかかる訴訟事件の判例に照らしてみて、統一教会と自民党議員との関係はどのように評価されるのだろうか。おそらく、統一教会による自民党政治家の支援は他の宗教団体が特定の政治家を支援や後援することと同様に憲法には違反しないと判断されるだろう。問題は、自民党が統一教会に対してその教説や活動内容に賛意を示し、結果において統一教会の種々の活動を援助することになったかどうかである。筆者の判断としては、自民党政治家の側で宗教的意図を持った行動はなかったにせよ、明らかに統一教会は自民党政治家を広告塔としてその政治活動に活用したのであるから便益を得ている。しかも、統一教会の関連団体による社会活動のアピールが信者によって統一教会の宗教活動の正当性とも理解され、結果的に信者の信仰強化、ひいては多額の献金に繫がった可能性が否定できない。この点において社会問題化する宗教活動に自民党という政党が加担したとも言えるのである。この点に関して自民党には説明責任がある。

 「過ちては改むるに憚ること勿れ」の精神をどれだけの政治家が持つだろうか。少なくとも統一教会の活動に関しては、統一教会を批判する人たちは宗教法人としての公益性に疑義があるとしてきたし、今回の事件によってより明確になったのではないだろうか。その場合、①宗教法人に一部事業の活動停止を命ずるか、②認証を取消すか、もしくは③解散命令を下すことが可能だろうか。以下、具体的に考えてみよう。

 ①宗教法人法第六条において宗教活動に加えて公益事業やその他の事業が認められているが、第七九条第一項に「所轄庁は、宗教法人が行う公益事業以外の事業について第六条第二項の規定に違反する事実があると認めたときは、当該宗教法人に対し、一年以内の期間を限りその事業の停止を命ずることができる。」とされる。この場合、所轄庁である文科省は審査を行うにあたり、宗教法人審議会において審議し、処理することができる。
 ②宗教法人の認証取消に関して、宗教法人法第八〇条に規定された認証の取り消しは認証書を交付した1年以内の取消なのでこの規定を使って宗教法人の認証取消を行うことは実質的にできない。
 ③宗教法人法第八一条「裁判所は、宗教法人について左の各号の一に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる」とされ、一号「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」二号「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと又は1年以上にわたってその目的のための行為をしないこと」が理由とできる。この場合、第二項において「当該宗教法人の主たる事務所の所在地を管轄する地方裁判所の管轄とする」とあり、宗教法人、所轄庁、検察などが陳述した後に裁判所が判決を下すことになる。

 このやり方を適用したのが、オウム真理教に対する解散命令であり、事件後の1995年に東京都知事が東京地裁に解散命令の請求を行い、東京地裁と東京高裁が認め、最高裁も教団側の特別抗告を棄却したため、解散が決定した。教団が主張する信教の自由の保障に関して最高裁は宗教法人の認証に限定した解散の効力であって、個人が信仰を継続し団体を維持することまで規制するものではないから憲法二〇条に反することはないと理由を述べている。

 統一教会の場合、オウム真理教事件とは異なり、刑事的事件となった例が少なく、民事的事件が大半であることから同様の対応を取ることは極めてハードルが高いだろう。そもそも、宗教法人法は宗教法人の認証にかかわる法であって、宗教法人を監視し行政指導を行うような法の構成ではない。日本において1939年に成立した宗教団体法や中国の宗教事務条例といった行政的に宗教団体を統制する法律ではないのである。したがって、③で述べた宗教法人としての解散命令にも相当の根拠が必要であり、所轄庁だけで判断できるものではないだろう。したがって、末松信介文部科学大臣は記者会見において、統一教会の問題は「個別に法律的な処理」を行い、「文部科学省が立ち入って指摘をするということについては、極めて抑制的である」と述べたのも当然のなりゆきだった(文部科学省大臣記者会見録 令和4年7月12日)。

 本書で詳細に述べられるとおり、統一教会は一宗教法人だけの存在ではない。数多くの政治団体や企業体を含むコングロマリットである。仮に統一教会の名称による宗教法人として解散を命じられたとしても、別の宗教法人を設立したり新たな社団法人や財団法人などを結成したりして活動は継続されるだろう。その意味では、宗教法人としての処遇を問題化することは大いに意義あることであっても、もとより正体隠しの勧誘活動を行うこの教団にとって痛くも痒くもないことなのかもしれない。ただし、宗教法人としての活動に疑義があり、公益的な活動をしていないと公に評価されることによって、政治家たちも統一教会や関連団体と関係を持つことに抑制的になるのではないだろうか。

 いずれにしても、この度の事件の後も統一教会による活動は当面継続されるだろうし、金銭的精神的な被害を訴える人たちは一定数生まれ、二世信者達、三世信者達の困難も容易に解消されるものではないだろう。そうした人たちに対する支援活動は今後も続けられるし、この事件を契機としてさらに強化されなければならない。日本における社会問題の1つとして、この度の事件や統一教会の問題が人々の記憶に留められることを祈りたい。

付記

 本稿は2022年7月19日に脱稿した。急ぎ印刷に回さなければ4刷に間に合わないとはいえ、事件後10日余りの情報整理だけで文章を書き上げることに筆者として躊躇しなかったわけではない。しかしながら、本稿で述べてきたことは、事件の経過や今後の事件の進展によって変わる部分はそれとして、筆者の年来の持論でもあるし、現時点で公表して差し支えがないものと判断した。

文献

有田芳生、1990、『原理運動と若者たち』教育史料出版会。
櫻井義秀、2014、『カルト問題と公共性―裁判・メディア・宗教研究はどう論じたか』北海道大学出版会。
櫻井義秀編著、2015、『カルトからの回復―心のレジリアンス』北海道大学出版会。
櫻井義秀編著、2020、『アジアの公共宗教―ポスト社会主義国家の政教関係』北海道大学出版会。