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日本酒を自分の真ん中にして、無我夢中でやってきたひとのこと。

こんばんは。

まずはこの写真をご覧ください。
手前のモノは何だと思いますか?
わたしは初めて見たときには潜水艦か?と思いました。。。

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ここは北海道栗山町の140年にわたる酒蔵、小林酒造です。
昔の北海道は寒すぎて発酵がうまくいかなかったので、ボイラーを使って湯を沸かし、蔵を暖めました。そう、これ、ボイラーなんです。蔵はレンガです。
ここにしかない組みあわせです。

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ずいぶん立派な建物ですね。ここは敷地に入ると、別世界のようです。
映画のロケ地になることもしばしばなんですよ。

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こちらは役員住宅だった家。今はお蕎麦屋さんになっています。
蕎麦をつまみに一献。( ̄ー ̄)。
直売所がまたすごい建物「北の錦記念館」の中にあります。
直売所になっている1階は北のウォール街と言われ、経済の中心だった小樽の北海道銀行をイメージして、2代目小林米三郎さんがつくりました。

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彼は猛ダッシュで時代の先を行く事業家でした。アイデアと行動力を時代が後押ししたのです。
昭和になって、酒の運搬のために自動車を使う関連事業として石油を、酒販売のために北酒販、そこから北海道朝日ビールに関わりました。
そして本拠地栗山にテーマパーク級の「小林酒造ワールド」を作りました。
(テーマパークとは思われなかったでしょうけれど)

小林酒造を代表する銘柄が北の錦。本州からやってきた蔵人や杜氏が使った品々、酒造りが終わった直会(なおらい)に使われた設えなども見ることができます。

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なぜこんな事業ができるほどお酒が売れたのかというと、
すぐ隣の夕張に日本のエネルギーをまかなう石炭炭鉱があったからです。

日本酒は炭鉱夫たちの一日を締めくくる、なくてはならないもので、それが小林酒造の「北の錦」でした。その日をリセットする酒が必要でした。

そして時代は変わります。北炭夕張炭鉱の閉山。北の錦の需要は激減します。
三代目小林米三郎さんは事業の整理に専念しました。

そして、若き日々を栗山から離れて、広く人と交流しながら過ごした四代目小林米三郎さんが襲名して、小林酒造の平成が始まりました。

彼が直面した「北の錦」の未来の暗さ。
未来のないところからのはじまり。

「造り酒屋の灯は消したくない」

安酒を撤廃し、味のある余韻のある酒を造る。
札幌圏にあわせた市場を作る。
道産米で日本酒を造る。

そして、若いときには当たり前に見えていた蔵を見る視点が生まれます。

「ここの建物は観光に使えるじゃないか!」

北炭夕張炭鉱の閉山に至る大きな事故は、わたしも今でもニュースを思い出すほどに悲惨なものでした。その時やその後の夕張や栗山を含む近隣の町の人々の悲しさは想像に余りあります。

暗い歴史を踏まえて、若い平成世代が新しい活気のある栗山を作れるためにどうするか。

小林さんは、町の人たちと議論を重ねました。
重ねて、重ねて、重ねました。
みんなで出した答えは、

賑わいを栗山に創出しよう。


日本酒を心の真ん中において、何をするか考え、行動する日々がスタートしました。

さっそくの平成元年には「栗山酒蔵まつり」初開催です!!!
そして、このまつりは、その後、栗山の老舗と協力して「栗山老舗まつり」となりました。
大賑わいのこのまつり、夢みた未来が現実になったのです。(リンクはコロナ前2019年の様子です)

それから10年。北海道の酒米が誕生します。吟風、彗星、北しずく。

栗山町内で酒米を作る農家もいます。冬は蔵人です。かっこよすぎです。

そして、夢見た未来はなんと世界へ。「本物を世界に届ける」が合言葉。

東南アジアへの輸出、そして、2020年、フランスで開催されているKura Masterではプラチナ賞を受賞しました。(拍手👏~!)

小林酒造の酒造りは140年。大昔から変わらぬ酒造りの中にあって、時代に合わせていく経営とはなんだろう、お客様が求めていることは何だろうと、日本酒を真ん中に無我夢中で考える日々だったと小林さん。

そして、いまも変わらない小林さん。

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10月5日に札幌に新しく小林酒造の酒と、ぴったりのアテを楽しめる店がオープンしました。

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これからも日本酒が小林さんの真ん中にあって、小林さんはそれを、たくさんの人たちとシェアしていかれるのだろうなぁ。

北の錦で、北海道に乾杯したくなりました。

↑乾杯しちゃいました~。(⋈◍>◡<◍)。✧♡




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