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【保険業界⇒システムエンジニア⇒スタートアップ起業】プレーヤーの少ないレガシー業界で20代の凡人がなぜ起業したのか

起業の背景のご質問をいただくことが増えたので、お話させていただきます。

<プロフィール>
井藤 健太
株式会社IB【保険簿】/代表取締役CEO
1989年生まれ/兵庫県尼崎市出身/関西学院大学商学部卒
保険乗合代理店、保険会社、SI企業を経て2018年10月に株式会社IBを創業
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▼note【保険のカンタンな1分講座】



「起業」が人生の選択肢に出てきたのは、社会人になってから


父は会社員・母は主婦で、のほほんとした環境で育ちました。
高校で約140人在籍する野球部で大会メンバーに入ることができなかった経験により、その後の人生において「自分の市場価値を高めること」と「挑戦することにビビらないこと」を意識するようになりました。

とはいえ、その後大学生活においても「起業」という将来の選択肢が生まれたことは一度もなく、「厳しいこと」と「潰しのきくスキルが身につくこと」を軸に就活をし、大手の保険乗合代理店に就職しました。
就職した会社で、創業経営者である社長の「可能性は無限」「限られた人生をどう使うか」という話から、「どうせ死ぬなら、自分の人生を目いっぱい使い切ってあげたい」「世の中に残るものを創りたい」と思うようになったのが起業を意識するようになったきっかけです。

ちょうどその頃(25歳頃)、「人生の目標を時系列で紙に書けば、その通りにいく」ということを(タイトルは忘れましたが)本を読んだことをきっかけに信じてやってみました。
その中に、「30歳で自分の事業を立ち上げている」ということを書いています。ちなみに、その書いた紙はどこにいったかわかりません。笑

そこから、とにかく人に会いまくりました。
大阪で、人脈のない状況から、保険の仕事をしている若造が会える人にひたすら会うわけです。
まあ、ネットワークビジネスの勧誘にはたくさん遭遇しました。笑

そうこうしながら、様々なビジネスの話を聞いたり、街を歩いていたりしていると、色んなペインが目に付くわけですね。
「このペインを解消するには、どんな施策を打てばいいんだ?どうやったら実現できるんだ?」ということを常々考えていました。
「起業家になる人の多くは“行動派のクレーマー”だ」と最近聞いたのですが、そういう気質はあったかもしれません。
そんなこんなで、20代中盤に100個ほどビジネスアイデアを書き出しました。

30歳へのカウントダウンが始まる中、絞り込んだ2つのビジネスは両方ともITが絡むものでした。
当時保険会社に転職していた私は、ITに関してど素人。システムエンジニアは魔法使いだと思っていました。

「この状態でITビジネスを立ち上げても、自分が思い描くサービスは作れない」と思い、「最低でもシステムエンジニアと共通言語で会話できるようになろう」とITの勉強をすることを決めました。

それも、
「仕事以外の時間を使って1日3~5時間の勉強では、それなりに理解するまでに3年はかかってしまうだろう。1日20時間を1年間やろう。仕事も勉強もITだ。」
ということで、システムエンジニアを未経験でも採用してくれるSI企業を探し、27歳で東京の会社に転職しました。


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加入保険情報の一元管理ツール「保険簿」の構想は大学時代


弊社が提供するツール「保険簿」は私が大学時代に構想したものが元となっています。

その経緯をお話しします。

高校までは野球ばかりしてきたので、大学生になって1,2回生のあいだ、「社会経験」「遊びを覚える」というテーマで、毎日サークルやバイトをしていました。
まあ、遊んでたわけです。単位もそこそこ落としました。

ところが、成人するころに「また青春したい。けど身体は故障だらけでスポーツはできない。よし、それなら、勉強で青春しよう」と思い、サークルをすべて辞め、バイトも最小限にし、勉強に振り切りました。

勉強に振り切ったそのタイミングで入ったゼミが、たまたま保険のゼミだったことが保険との出会いです。

ちなみにゼミを選ぶ基準は、「意識が高そうかどうか」のみ。
意識が高いことで有名だったゼミには単位不足で落ちたので、第2希望だった保険のゼミに入りました。

入ったからには頑張ろうと思って保険業界を調べてみると、
マーケットがむちゃくちゃでかいし、国民のほとんどが加入しているし、業界の歴史とか根深くて面白そうだと思いました。
しかも、保険会社というのは、優秀な人が入社するけれど、キャリアが硬直的で給与も良いのでなかなか社外のことに目を向けることがない。
つまり、保険業界を横断的かつ歴史も遡って知っている人はそれほど多くないのではないか、という仮説を立てました。

まさか保険業界に就職するとは思っていませんでしたが、大学での目標を「(客観的な指標はないけれど)日本一保険業界に詳しい学生になる」と決め、保険の仕組み・業界史・業法・消費者心理・チャネル・会社形態・保険経済学などの勉強に没頭しました。

・・・2011年3月11日

3回生の後半、就職活動を始めたころでした。
東北大震災が発生しました。

その日、「東北地方で何かあったらしい」ぐらいの情報は面接会場で聞いたのですが、あまり気にすることなく大学のキャリアセンターでエントリ―シートを書き、23時頃に帰宅しました。
実家で夜ご飯を食べながらテレビに目をやると信じられない光景が映っていました。

津波で流される人たちの、今まで大切に生きてきた人生が走馬灯のように私の中に入ってきました。
一方で、同じ日本でこんなことが起きているのに、自分は明日、就活の面接に行くという無力感・情けなさ。
風呂に入り、大泣きしました。

6月に就活を終え、すぐに東北地方にボランティアに行く準備をしました。
大学の友人を何人か誘いましたが、一人も話に乗ってもらえず、また一人で泣きました。笑

兵庫県から1人で車で行くわけにもいかないので、京都大学のボランティア団体に参加し、現地に行きました。
震災から3か月たっていましたが、現地は悲惨な状況でした。
今でも、現地の人の表情や、ボランティアで一緒に汗を流した仲間のことを鮮明に覚えています。

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ボランティアを終え、関西に戻り、卒業論文にとりかかったのですが、どうしても気になったことがありました。

それは、
津波で家が流され亡くなった人の家族は、すべての保険を請求できたのだろうか?
という疑問です。
保険は加入者やその家族が自ら請求しなければ、保険金を受け取ることができないからです。
そういった仕組み上、保険の請求もれは必ず発生していると確信しました。

そこで思いついたのが、「加入保険情報を紙ではなくデータで一元管理し、家族や親戚とも共有する仕組み」でした。

データの登録に関しては、当時マイナンバーの話が出てきたころだったので、マイナンバーの個人アカウントと保険会社のデータベースが連携することで、加入保険情報の一元管理とアプリ等での見える化ができ、請求や住所変更等の手続きも一括でできると考えました。

このように、「国が中心となってこの仕組みができてほしいな」と構想したのが、最初の「保険簿」のきっかけです。
ちなみに、「保険簿」という名前は「家計簿のようにあくまでも管理することが目的だということがぱっと見てわかりやすいように」という想いで、当時考えたものです。


一方で民間企業がこの仕組みを実現することはできないだろうか、とも考え、保険代理店や保険会社がマーケティング目的で管理アプリをサービスとして提供するということも構想し、就職する保険代理店にレポートを提出もしてみました。

ただ、保険を販売する主体が運営してしまうと、

①保険の契約がキャッシュポイントとなることで、コンシューマーから一定の割合で警戒される
②競合する他の保険事業者との協力が難しい

という理由で、国民全員が利用するプラットフォームにはなれないと考えていました。

とはいえ、「保険の契約」以外でマネタイズのポイントが思いつかなかったので、
「マイナンバーがんばれー」
と、まさか自分が「保険簿」で創業する日がくると、当時は思いもしませんでした。


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「保険簿」事業化の一筋の光


「加入保険情報の一元管理システムは、国家プロジェクトだ」と思っていましたし、2012年にマネーフォワード社が設立したときは「民間がやるとしたらこういう会社がやるんだろーなー」と、他人事のように考えていました。

私は保険代理店で個人向けの営業をしていたので、たいていのお客さんと「『保険簿』みたいなシステム必要ですよねー」という話をしていました。(意とせずユーザーヒアリングをしていたわけですね。笑)

ちなみに、大学時代に勉強していた仮説(保険業界の課題、消費者心理など)のすり合わせも、営業時代に経験できました。

請求もれが多発していると想定していたので、お客さんが加入している保険証券をみているなかで、請求もれを発見することが多々ありました。

請求できる保険に気づき、喜んでもらえるお客さんが多くいた一方、請求もれが大きな社会課題だという危機感は日に日に増しました。


ところで、最初に就職した保険乗合代理店は、お客さんと担当者としてお付き合いをする仕組みではありませんでした。
そういったこともあり、「お客さんを担当者としてお守りしたい」という想いが強くなり、保険代理店で独立しようと思いはじめました。
独立にあたって、「個人向け生命保険だけでなく、損害保険・法人保険の実務も経験しよう」ということが、損害保険会社への転職のきっかけとなりました。

しかし、独立したとて、お客さんの数が増えれば増えるほど、一人一人のお客さんをフォローすることが困難になることは想像に容易いですし、そもそもお客さんより先に自分が死んでしまう可能性も高いわけです。

そうするとやはり、「お客さんの自己責任のもと、自分自身で加入している保険を管理できる仕組みが必要だ」という想いが強くなってきました。


でも、マイナンバーの雲行きは怪しい・・・

また、損害保険の実務を経験する中で、生命保険・損害保険を横断的にシステムで管理することの難しさもわかりましたし、業界の利害関係のしがらみも複雑で、Fintech企業が保険領域に踏み込んでこないのも納得できました。


・・・お客さんの将来の保険のことをお守りできないのなら、もう保険代理店での独立はやめよう・・・

そう思った時期が、20代中盤、ビジネスアイデア100個を書き出すころでした。


そんな中、2016年(26歳のとき)に転機が訪れました。
それは、保険業界の「改正保険業法」と、医療業界の「診療報酬改定」です。


1つが「改正保険業法」。

従来、保険業界には「リーズ販売会社」といって、WEBサイトで集客した顧客の商談アポイントを、保険代理店に販売するというビジネスがありました。
商談アポイントは、一件あたり2万円~10万円ほどの料金で保険代理店に販売しており、中には「保険の相談で5000円分の商品ポイントを差し上げます!」といった集客手法をとっているリーズ販売会社が存在しました。

それが改正保険業法によって、金券相当のインセンティブでの集客が規制されました。
すなわち、保険代理店にとって、リーズ案件を購入するという新規商談獲得の手法が今までのように機能しなくなることを意味します。
また、各企業のセキュリティの強化で職域営業が困難になり、WEB集客や保険ショップもレッドオーシャン。
そもそも国民のほとんどが保険に加入しているので、「保険の話聞いてよ」という白地開拓の余地がないわけです。
つまり、「契約後のアフターフォロー」「請求勧奨」「コンプライアンス」をおざなりにすると、保険事業者は生き残っていけない状況になることを意味していると理解しました。

また、金融庁が2015年に「顧客本位の業務運営に関する原則」を表明しました。
なんだかよくわからない言葉ですね。笑
もともと保険業界では、2005年の「保険金不払い問題」をきっかけに、金融庁が発した「顧客”保護”」の方針で動いていました。
これは「保険事業者がどういう想いでやっていようが、顧客からは”騙すやつら”だと思われているのが現状だぜ。例えば、ラーメン屋で注文してお金払ったら、写真と全然違うラーメンが出てくるような状態だぜ。だから最低限のことはちゃんとしようぜ。」という意味だったと私は捉えています。
不払い問題から10年後、2015年に「顧客”本位”」の「原則」に変わりました。
これは「”騙すやつら”の状況は改善したね。でも商売というのは、注文通りにラーメンを提供するだけだとダメだぜ。他店と差別化したここでしか食べられないおいしいラーメンを、掃除の行き届いた店でホスピタリティをもって提供しないと潰れるぜ。だから、どうすればお客さんに認められるお店になるか、お客さんの視点に立って自分の頭で考えようぜ。」という意味だと捉えています。
お客さんの視点に立って保険の体験を考えた時、業界が横断的に協力しないと各保険事業者の努力では解決できないスコープが生じてきます。
そうすると、顧客接点で業界が協力できるプラットフォームを、保険事業者がコストを出しながら運営していく蓋然性があると思えてきました。




もう1つの転機は、医療業界の「診療報酬改定」です。

当時、ビジネスアイデアを考えるにあたって、様々な業界について情報収集していた中で、医療業界の「地域包括ケアシステム」や「診療報酬改定」についても勉強していました。

以下、「診療報酬改定」について、あくまでも私の理解での説明です。

国は、「医療費の削減」「病院ではなく慣れた自宅で幸せな最期を迎える」という目的で、地域の医療従事者が在宅患者を見守る仕組みを目指しています。
その為には、地域の病院・介護・薬局が患者の情報を連携しなければならないので、厚労省はまず、個人ひとりひとりにアカウントを持たせるために、「患者に近い立場にいて」なおかつ「比較的業界を動かしやすい」薬局と協力して、電子お薬手帳を普及させるべく2016年に診療報酬改定を行いました。

その改定の中には、「薬局は、電子お薬手帳を導入して、患者に提供できなければ“かかりつけ薬局”になれないよ。“かかりつけ薬局”になれないと、診療報酬が相対的に下がっちゃうし、患者さんは他の薬局に囲い込まれてしまうよ。」という意図が含まれていました。

つまり、「薬局として生き残るためには、電子お薬手帳を普及して、患者に寄り添ったかかりつけの薬局になりましょうね」ということです。
この発想は、保険業界にも置き換えることができると思いました。


以上のような2016年の動きがきっかけで、

保険代理店は、
◆アフターフォロー・請求勧奨・コンプライアンスにリソースを割き
◆お客さんの信用を得て「顧客に寄り添ったかかりつけの保険担当者」となり
◆既契約者との接点を継続するなかで、紹介やクロスセルによる商談を生み出す

といったことをしなければ、今後生き残っていけない

というペインストーリーに気づきました。

つまり、“保険の契約”をキャッシュポイントにしなくても、コンシューマーを基点としたプラットフォーマーとして、なおかつ保険事業者のペインも解決できるWin-Win-Winの仕組みで「保険簿」をビジネス化できるという、一筋の光が見えたのです。


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「保険簿」で創業することを決意


保険簿でのビジネス化に光を見つけましたが、いきなり会社を設立することはしませんでした。

前述のとおり、「システムエンジニアは魔法使いだ」レベルにIT知識がさっぱりだったので、思い描いたサービスを創ることができないという確信があったからです。笑

保険簿を含めた2つのビジネスアイデアに絞った状態でSI企業に転職し、毎日修行僧のように勉強しました。

ちなみに、ビジネスアイデアを絞る基準は

①社員にとってやりがいがある仕事
②社会性がある
③一番になれる
④伸びる構造の業種
⑤自分が継続して熱を注げる
 ‐生活と切り離せない
 -国民全員に知れ渡る
 -物事をシンプルにする

という5つでした。

ところで、弊社CTOの下岡はそのSI企業の同僚です。
会社のとあるプロジェクトの帰り道、下岡から「今までインプットは積んできて、開発しようと思えばだいたいできる。けど、アウトプットするネタがないんだよね。」という話を聞きました。

「じゃあ、、、」ということで、保険簿アプリをアウトプットのネタとして、一緒に開発の勉強をすることにしました。

下岡と私は勤務地がばらばらだったので、業後ほぼ毎日、六本木ヒルズライブラリー(月額1万円ほどで勉強できる図書館)に集まり、終電間近まで一緒に開発したり、議論したりしていました。

そんな中、2018年夏ごろ、大阪北部震災や中国地方の豪雨被害など災害が立て続けに起こりました。

私は「保険簿をいち早く世の中に出さなければ、また請求もれによって治療を諦めて亡くなるようなことが起きてしまう」と思い、いてもたってもいられず会社を退職しました。

そして2018年10月、29歳。
保険の販売事業には手を出さず、「保険の請求もれをなくす」というミッションで、
株式会社IBを創業しました。


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以上が、起業に至った経緯です。

その後、「東京に人脈なし」「資金調達ってどうやってやるんだ?」という状況からサービススタートまでの道のりなど、機会があればお話しできればと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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