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エイプリルフール・イブ 全てが嘘になる前に語っておきたいこと

最近、周りで多くの人がこの世界からいなくなって、いろんな宗派のお別れの儀式に出た。
最近、身近なあの人たちが老いていって、いろんな姿を見ている。

なんてノートを書いたのは、
この節目にひとつ、蓄積された私の思想を明文化してみようと思い立ったからだ。明文化すると私から離れ、独り歩きするだろうけど、それを楽しんでみたい気もする。

私は、特定の思想に傾倒しないと言う意味では無宗教であるが、無神論者ではない。”神”は、いる、と思っている。
ただし、ひとくちに神といっても、人間的骨格を持った全知全能のものを指しているわけではない。私の感じる神というのは、カムイあるいはGOD(YESではない)、الله(アッラー)と呼ばれるような、人間に対し圧倒的な力を持つ存在のことだ。

つまり、人知の及ばない領域。
だから、在る、ともいう。

言葉は違えど、離れて発展してきたにも関わらずそこかしこに同じような概念が転がっているのだから、きっと「何か」はあるのだ。
ただし、私はそれを神とは呼ばず、ただ単に「それ」としか呼んでいる。
だから無神論でもあるのかもしれないが、そこは言葉遊びの問題。

「それ」はいつもそこに在る。

概念を一言でいえば「自然そのもの」である。
より正確的に言うならば、英語で言うところのnature(=自然・本質など人の手ではどうしようもないもの)であって(このあたりはカムイ?)、
唯一のものであり(الله)、
その実さまざまなものの集合体(八百万・カムイ)。
私たちを生み出しながら(GOD)、
ただ、そこに在る。

私たちは「それ」から生まれ、そこへ還っていく。
ちぎられたスライムよろしく、戻ってくっつけば再びその一部となりどれが何やら分からなくなる。
それは、輪廻転生・死と再生の概念に近いが、物理的な視点で考えれば、生まれては死んで大地と融合し、それを基に生命が育ち次の生命を産んでいくサイクルはより明確に証明できることになっている。
大地は死の集積であり、生の基盤でもある。そういう意味では、大地信仰とも言えようか。

そもそも、世界は「それ」で満たされているから、生まれてなお「それ」に包まれたままだし、私が「それ」の一部であることにも変わりはない。
と考えれば、生と死にいかほどの差異があろう?

と、いうのが私の主張らしい。
らしい、というのは「ほかる」が「私」の主張を言語化しきれていないからだ。「私」は、ほかるの認知できる範囲を超えているから、神の一部でもあり、その全体をとらえるにはもっと勉強して、言語化できるようになっていかなくては……

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日本人は無宗教だと言われるが、私は皆別々の思想をお持ちなだけではないかと疑っている。
ぜひ皆さんの思想を紐解いてみたい。

最後までお読みいただきありがとうございます♪