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“最善とは何か?”常に向き合い寄り添うことで考える、よりよい関わり方【#在宅医療研究会オンライン|7月度レポート(2020/7/27)】

6月に引き続き、オンラインで開催された7月度の在宅医療研究会オンラインについて、レポートをお届けします。

講演:終末期ガイドラインの変遷から考える~よりよい関わりを目指して~
演者:ゆみのハートクリニック 岡山 大 先生

「終末期における“最善”とは何か?」その問いには、誰もが納得する答えがあるわけではなく、それは“その人が考えた最善”でしかありません。そんな答えのないテーマについて、終末期における最善・よりよい関わり方を常に考え研究をしている岡山先生から、ガイドラインや症例を元に語っていただきました。

SOLとQOL~価値観のグループ分け~

・SOL/キュア、治す・生命、入院(病院)医療
・QOL/ケア、支える(生活支援)、生活・人生、在宅医療

生命に関する価値観のグループ分けとして、大きく分類する単語(考え方)として、SOL(Sanctity of life)とQOL(Quality of life)があります。

SOLは“生命の神聖性”を意味し、「命には固有の価値があり、どんなことがあっても死に至らしめる行為は許されない」という考え方です。かつて重視されてきた医療的価値観(可能性のある限り治療を続けていく、身体を治していく)に親和性が高い言葉です。

一方、QOLは“生命の質”を意味し、「命には固有の価値はなく、質の良い生が望ましい」という立場や価値観に基づき用いられる考え方です。キュア(救命)よりも、ケア(支える)という価値観を語る際に親和性の高い言葉です。在宅医療は、生活・人生を支える場であり、このQOL的価値観を重視することが多い現場です。

終末期に関わるガイドラインとは

日本の終末期・意思決定にかかわるガイドラインは全19個あり、すでに改定された7の旧版を除くと12の現版が存在しています。そのすべてのガイドラインはプロセス(手続き、方針・意思決定)のためのガイドラインであり、実体的なガイドラインではありません。
これらのガイドラインを出している団体には、医学系団体(15個)・厚生労働省(2個)・日本学術会議(2個)があり、それぞれに医療色の強さ・研究色の強さが反映されています。

今回、岡山先生はこれらのガイドラインの変遷に基づき、終末期の定義・判断基準・考え方・社会情勢の変化などについて語ってくださいました。

終末期の判断をするのは誰か

1990年代から現在までの終末期のガイドラインの変遷を見ていくと、かつては終末期の判断を医師一人がする時代もありましたが、時代の流れとともに多くのガイドラインで「二人以上(複数)の医師による判断」へ、そして医師だけでなく「多職種で判断」をしていく傾向が求められるようになってきています。

多職種の中身・定義はガイドラインにより異なりますが、「医師」から「医師+看護師」へ、さらに「医師+看護師(他の医療職)+介護職+患者本人や家族」へと、医療職主体から介護職や本人・家族を含めた形へと、終末期を判断する職種の主体が変化してきています。その背景には「キュア→ケア」「治す→支える」「生命(優先)→生活・人生(優先)」へと、時代による医療や価値観の変化が反映されていることが考えられます。

終末期の定義のパターン

終末期の定義は、おおまかに「急性」「亜急性」「慢性」「増悪寛解」の4つに分けられます。

急性・亜急性・慢性は、死ぬまでの時間で分けられています。急性は救急医療の場で数時間~数日の単位で亡くなるような状態、亜急性はがんなどで予後が数週間~2ヶ月などといわれる状態、慢性は老衰や脳血管疾患後の後遺症などで数か月~年単位の状態などを表します。

つまり、経過が長いもの(予後が数年の状態)も終末期として扱われます。そのため、予後の予測は長くなるほど困難となり、終末期の定義があいまいになり判断が難しくなっていく(厳格性が低下する)傾向にあります。

終末期判断の厳格性の低下

終末期の判断の厳格性も、時代の流れとともにガイドラインが変化しています。かつては厳格な定義が求められていましたが、徐々に緩い定義から定義なしへと変化してきており、医療ケアチームで判断する方向性になってきています。

治療方針決定の主体

終末期の治療方針を決定する主体となる職種について、こちらも終末期を判断する職種の変化に近く、一人から複数人へ、医師のみから多職種へと、ガイドラインが変化してきています。「医師は一人でもいいが、多職種で判断して治療方針を決めていく」という傾向になってきています。

多職種の中身についても、キュアの主体である医師のみだった時代から、徐々にケアの象徴である看護師や介護職を含む多職種に傾向が移ってきており、キュアからケア、治すから支える、生命から生活・人生へと、変化してきていることが分かります。

終末期以外の治療差し控え・中止について

終末期のガイドラインには、治療の差し控えや中止についての記載があり、そのうちのいくつかのガイドラインでは終末期以外の治療についても記載されています。

複数のガイドラインがありますが、時代の流れとして
「治療を中止するなら“終末期でなくてはならない”」(1994)

「“無理のない範囲”でできるだけ延命」(2006)

「治療の可能性が残されている説明を繰り返し行うなど、“慎重な対応”が望まれる」(2007)

「当事者の合意を元に決定、終末期でなくても(人工栄養などの)中止は可能」(2012)

「慢性疾患・認知症終末期の捉え方も変わりつつあり、今後の推移を見守る」(2016/)

「終末期でなくても、透析の差し控え・中止を可能とする(予定)」(2020・未刊行/日本透析医学会)
と、終末期に限らず、治療への考え方が時代とともに変化してきていることがわかります。

変化を追っていくことで「治療中止は終末期のみ」から「終末期でない場合の差し控え・中止は慎重に」に、さらに「終末期でなくても差し控え・中止を可能とする」へ、という流れがおおまかに見えてきます。

終末期・治療に対する価値観の変遷

終末期にかかわる価値観の変遷は、ガイドラインだけでなく裁判の結果などでも表れてきています。

その転機となったといわれているのが、1998年に起こった川崎協同病院事件。この事件では喘息重積発作の患者に対し、家族の合意のもと医師が人工呼吸器の抜管を行い、医療を中止し死期を短縮させたとして、医師の責任問題が問われました。

<2009年 川崎協同病院事件 最高裁決定に対する批評>
これまでは(中略…)治療の中止は死期の近いときでなければ許されないという前提であった(…)しかし最高裁は、死期の切迫には言及せず(…)回復の可能性や余命について的確な判断を下せる状況になかったことを抜管が許されない理由としている。最高裁は、従来の死期の短縮の程度(…)ではなく(…)医療行為の適切さを出発点としており、重大なパラダイム・シフトである。(※刑法学者/町野朔氏による見解より)

第一審と控訴審では「死期が切迫していなかった=抜管は許されるべきではない」と抜管が許されなかった理由が挙げられましたが、2009年の最高裁では、死期の切迫には言及せず、「回復の可能性や余命について的確な判断を下せる状況になかったため=抜管は許されるべきではない」と、判決の理由に変化がみられました。これが、“適切な診断に基づいた医療の中止”という医療行為の“適切さ”を出発点とした判決として、価値観変遷の重大なパラダイム・シフトの基点とされています。

また、この時期に発表された終末期ガイドラインでも「従来のSOL重視の医師の義務の限界点を示すことではなく、QOL重視の医療ができるかどうかが大事(2007年・終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン)」と、終末期の定義をしないガイドラインが初めて発表されました。

この頃から、死期の切迫性から「医療行為の適切性」へ、SOL(生存)重視から「QOL(人生の質)重視」へと、医療・終末期に対する価値観に変化がみられています。

SOL思想の弊害

SOL価値観時代の医療について、30年前(1991年)にあった事件からの事例です。その患者は余命数日の状態にあり、どの医療者もそれを認識している状況でした。そんな中で患者の家族は「自然な姿で死を迎えさせてやりたい」と治療の中止を希望しましたが、当時の看護師や医師は、治療中止の申し出に対して治療継続を説得。医師は「最期まで治療をすることが医師の務めである」として家族の申し入れを断ったそうです。

今では考えにくいですが、当時はSOL時代からQOL時代への過渡期。「家族が治療中止を望んでいても、医療者が治療継続を説得する」ということが正しい考え方であると、多くの医療者が考えていた時代です。

QOLは「主観的指標」

QOLとは、WHOによると“人生における自分の立場の認識”と定義されています。それはつまり、客観的な指標ではなく「主観的指標」「個人の感じ方」です。QOLは全身状態が低下したら悪化するものではなく、その状況を本人がどうとらえるかが重要です。また、それに対して医療者がどうしたら患者を悪くない(QOLが保てる)状態へとサポートしていけるかが重要になります。

プロセスガイドラインとQOL思想の矛盾と危険

本来、QOLは主観的指標に基づくものですが、医療者は「あの患者さんはQOLが低い」などとQOLを無意識に評価してしまう傾向にあります。

高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン(2012)では「本人の人生を豊かにするかどうか、本人の益かどうか、という本人固有のものに基づいて方針を判断すれば治療中止も可能」という指標が出されています。そこには、本人にしか分からない主観的指標であるQOLを他人が判断せざるを得ない矛盾があり、他人の評価によって治療の中止も可能とすることの危険性をはらんでいます。

QOL思想の弊害

今現存するプロセスガイドラインは、すべてプロセス(手続き)のガイドラインです。
それによる懸念事項として「プロセスを尽くせば何でもできてしまう=患者を死に追い込むこともできてしまう」ということがあります。

高齢の患者は意思が不明なことも多く、近年は医療者の意識も「無理して治療するより苦しまないのが良い」という風潮になってきています。その結果、医療者側の良かれと思った判断により、安楽死を巡る事件など、後からみると良くないことが起こっていく可能性があります。

方針決定での家族の同意

SOL・QOLを巡る変化はガイドラインで家族の同意をどう扱っているかにも表れてきます。

日本学術会議のガイドラインでは、家族の同意を必須とせず患者本人の自己決定権を重視する傾向があります。また「できるだけ長生きしたい」が多くの患者の希望であるという延命継続・SOL重視の方針が示されています。一方、救急系学会によるガイドラインでは、回復見込みのない状況での治療の差し控え・中止の判断もあり、方針決定において家族の意思を必須とし、QOLを重視する傾向にあります。

最善とは何か?尊厳の意味・真のSOL・QOL

岡山先生は「何をしたら相手の尊厳を最も尊重したことになるのか?」と常に考え、終末期の医療やガイドラインについて研究しています。そんな中、「尊厳には二意性がある」と学んだそうです。

尊厳を意味する言葉には「Dignity」と「Sanctity」があり、共にその言葉の意味に「尊厳」が含まれます。Dignityは人格の尊さ・威厳などの意味があり「植物状態になったらもう終わり」「生きていてもかわいそう」など、QOLと親和性の高い言葉です。一方、Sanctityは神々しさ・神聖さなどの意味があり「生きているだけでいい」「命には固有の価値がある」というSOL寄りの言葉です。つまり、患者の尊厳を考えるとき「その“尊厳”をどういう意味・意図で使っているのか?」を合わせていかない議論の論点や認識はズレていってしまいます。

「最善とは何か」を考えるとき、岡山先生が大切にしていることは「良い/悪い」を決めずにどの考えも大事にすること。 タブー視される死の対極にあるものとして「生きていることは良いことだ、だから命を大事にしよう」という考えは、本当のSOLではありません。命が輝くのは死があるからこそであり、死を悪とする立場から導かれたSOLは本当のSOLではなく、弊害を引き起こします。また、QOLも同じように、「病苦は悪、安楽がいいことだ、だからQOLを大事にしよう」と短絡しすぎてしまうとおかしくなってしまいます。病気は辛いものですが、悪いものではありません。病苦があるからこそ、健康や安楽のありがたみがわかります。病苦=悪と考えてQOLを推進すれば、SOLと同様に弊害を引き起こす可能性があります。

「生も死も、良い悪いではなく両方大事にすべきもの、その先に見えてくるのが真のSOLではないか」「安楽も病苦も、良い悪いではない。それが分かったうえで見えてくるのが真のQOLではないか」そんな岡山先生の言葉からは、SOLだけではなくQOLだけでもない、良い悪いを決めつけない、常に関わる人の尊厳・最善を考えていく真摯な姿勢が伝わってきました。

事例を通してのケーススタディ~最善の対応とは~

<事例>
複数の心疾患の既往歴があり、心不全により入退院を繰り返している87歳男性。強心薬の持続点滴からの離脱が困難となり終末期と考えられた。退院希望が強く、持続点滴を継続したまま退院となり、訪問診療が開始となった。本人は認知症があり要介護4、妻も軽度の認知症があり、点滴管理やオムツ交換などの負担から妻の不安や疲労が増強。本人は自宅で過ごすことを望んでいるが、妻は精神的・身体的・経済的負担から夫の入院を希望している。
<問い>
この事例において、どう対処していくことが望ましいか?
・妻の希望通り、入院させる
・患者の希望通り、在宅継続できるように、妻が安心できるようにいろいろと説明する
・その他
<参加者から寄せられた意見>
・最近の在宅の現場では、ご本人の希望を第一に優先することが多い。まずは在宅でできる限りのサービスを入れて、それでも厳しかったら「〇〇しよう」「次は〇〇」と段階的に提案していくのが良いのではないか
・実際に訪問看護の現場では、この事例のようなギリギリのケースでよく悩まされており、入院してもらうケースもある。家で最期まで過ごせる・看取れるためには、ご家族だけでなくケアマネージャー・ヘルパーなど多職種の力が結集されてこそできることだと、日々実感している。
・困ったときにすぐ来てくれるヘルパー・看護師・具合が悪い時に緩和などの処方をしてくれる医師がいることを伝えたい。
・ケアマネージャーと連携してもらえれば、経済面も考慮しながらサービススタッフと連携して支援できる。妻に寄り添いながら、妻の不安の除去ができると在宅生活も継続できるのではないか。
<事例での実際の経過>
病院に行けば、患者本人は「帰りたい」と確実に訴える、在宅を継続すれば妻が限界となり在宅継続が困難になる、そんなどちらかを取ればどちらかが立たないという状況において、医療側として選択したことは、妻の話をひたすら傾聴すること。説得しようとはせず「最善とは何か」を考え、不安に寄り添い傾聴していった。すると「やっぱり家で見てあげるのがいいのかもしれない」と妻の気持ちが自然と変化し「この家は夫がようやくの想いで手に入れた家だった、ここで最期を看てあげるのがいいのかもしれない」と在宅を継続していく気持ちに変わっていった。
その後、患者は亡くなる前日まで食事がとれ、亡くなった当日も来訪者が帰るときに手を振り、妻が気づいたときには安らかな表情で息を引き取った。その後、妻は「これで本当によかったのか?」と話していたものの、「死ぬときは苦しくなかったと思う」「入院しなかったことで、本人に寂しい思いをさせることはなかったと思う」と誇らしげに話していた。

まとめ~最善とは何か~

最善を考えるときに大切なことは「入院させるのか、在宅継続か」「SOL か、 QOLか」といった二者択一ではなく、既存の知識や経験だけを頼りに「こうすべき」と提案するのでもなく、その人・その場に「本当に良いことは何なのかと“真摯に考えること”ではないか」「答えが出ないこともあるが、それも含めて寄り添うことが最善なのではないか」と、岡山先生は最後に話されていました。

講義後のQ&A

Q:循環器の患者、発作で急に予後が数日となることがある。急に残りの人生が短くなった患者さんの家族のために、尊厳を保ちながら関わるために、意識しているコミュニケーション方法はあるか?
A:患者さん、家族それぞれで違う。医療者側が驚くほど受容がスムーズなケースもあれば、慢性期でゆるやかな経過でも死の受容ができない患者・家族もいる。個々の反応を見ながらの対応になる。こまめに関わることで安心する場合は何回も行く、話す内容を工夫して声かけをしていくなど、個別性に合わせていくことが必要なのではないか。
Q:もし事例で、本人の意思を差し置いて奥様の希望を優先して入院して亡くなっていた場合、奥様から「家で見てあげればよかった」と後悔の言葉が聞かれたらどんな声かけをしていたと思うか?
A:その場面になってみないとわからないが、その都度考えながら関わっていくことしかできないと感じる。答えはないが、何も言わずに話を傾聴したり、共感していくことができる対応なのではないか。
Q:SOL重視からQOL重視へ時代の価値観が変わっていったとき、従事していた経験が長い医師に混乱はなかったのか?
A:価値観の変化は明確なものとして医師が感じているものではないと思うが、混乱した時期はあったと思う。価値観の変化が起きた頃には、医療過誤・医療事故の事件があった。そこから医学教育が変わっていったため、若い医師は比較的QOL思想に親和性が高く、逆に医師歴が長い人ではSOL思想に親和性が高いかもしれない。冒頭で述べたように在宅医療はQOLの最前線であり、生活が目的であるためQOLに重みが強く、病院医療は治療が目的なのでSOLに重みが強い傾向ともいえる。全体としてはQOL思想に変化してきているが、個人の考え方・価値観により違いはある。
Q:余命宣告を受けた高齢の方から「苦しいのが嫌だから早く死にたい」「(周りの人も亡くなっているし)もう天国に行きたい」と言われたときにどんな声かけをしているか?
A:一概に「こうしたらいい」と言えるケースがないため、その場その場で、相手に合わせて寄り添い一緒に悩むなど、相手に合わせた対応を悩みながら絞り出すことで対応している。答えがなく難しい。

講演を通して、岡山先生が常に目の前の人にとっての最善を考え寄り添う、真摯な姿勢が伝わってきました。岡山先生、ありがとうございました。

今後の開催予定

今後の予定につきましては下記リンクよりご確認ください。
医療職・介護職・福祉職の方であればどなたでもご参加いただけます。お気軽にお越しください。



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