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「つまらない先生!」と言われ



少し前のお話でありますが、
私の中で衝撃的だった子どもの言葉を記録に残したいと思います。

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コロナ禍でテレワークのこのご時世。
普段はシッターを使わないご家庭へも内閣府の補助金が出ることもありお伺いする機会が増えた。


普段は保育園に行っている子も、今まで馴染みのなかったシッターさんに毎日のように来てもらうという現状。

そんな中、お伺いしたご家庭での子どもとのお話。


「先生、何持ってきたの?」


彼女はこんな言葉を発っした。

 

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Aちゃん(仮)の中では毎日来るシッターさんは「」を持ってきてくれたようだ。


私はその子との関わりを深めたいのもあり、極力、「物」は出さない。

初めて出会うその子が
どんな遊びをする子なのか
どんな創造性があるのか
どれだけ柔軟性があるのか

遊びの中で見せてもらってから最終的に「物」を出すこともある。


関わりが深められる子には結局最後まで「物」を出さないで終えることもあるくらいだ。




話が逸れたけど、
Aちゃんは、開口一番「先生何持ってきたの?」と口にした。


「え?」

私は唖然とした。




そして、次の一言には
「何も持ってきてないの?つまんない先生!」
と、言い放ったのだ。


私はポカンとしてしまった。
Aちゃんは私を"物を持ってきてくれる人"だと思ってるのだ。

それだったら、どこのどんなシッターでもいいわけだよなぁとぼんやり考える。


Aちゃんの中には「来てくれたシッターさんと遊んだ記憶」よりも、

「物を持ってきてくれた人」として刻まれるだけだ。


実際、以前来てくれたシッターさんが「どんな人だったのか」という話は一切なく、「どんな物を持ってきてくれた」という話しかしなかった。



私はAちゃんの捉え方に色んな感情を抱いた。



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今の子は何もかもが物質的に満たされている。
物があって当たり前であって、ないと何もできないようなものだ。


ない物があればどうにかして作り出すという過程も知らないのであり、どう作るかもわからない。



物がありすぎる世の中は確かに便利だ。
だけれども、便利と引き換えに何かを失っているような気がしてAちゃんの一言には色んな意味でショックであった。


「つまらない先生」と評価されたことにショックを受けたわけでもない。


物に頼りきってしまっている現代人(子どもたち)の本質を見たような気がして悲しいような、悔しいような、なんとも言えない気分だった。


私は物ではなく、何より人と人との触れ合いや心を寄せ合う関わりを第一にしている。

人と直接関わることの温かさを大切にしている。


時間があったら歌を歌ったり、手遊びをしたり
ふれあい遊びをしたり、家庭の様子を聞いてみたり、会話を主に関わりを広げていく。


直接的なコミュニケーションが生身の人間同士のやりとりには欠かせないものだと思っているから。


そんなAちゃんとはごっこ遊びなど関わりを通した遊びで少しずつ距離感を縮め、たくさんコミュニケーションをとることができた。


コミュニケーションが嫌いな子ではなくて、引き出せば引き出すほどとても純粋で遊びもどんどん広げていける子だった。


純粋に、もったいないと思う。
物を与えられていること自体が彼女の創造性や柔軟性を奪っているということ。


物さえ与えれば満たされるわけではない。


人と人との関わりを通して
様々なことを学んでいく過程が大切なのではないかと深く考えることとなった。


子どもたちが置かれる環境は千差万別。

親は選べないし、価値観は親から引き継がれるバトンのようなものだ。


子どもたちに何を伝えていくべきか、何を与えるべきか、何を選択させるべきか。


一つ一つが子どもの未来を作っていくのである。


彼女の一言でこんなに深く考える機会となったこと、Aちゃんには感謝。


ありがとう。


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保育士ベビーシッター 
小西なつき

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