【コラム これからの保育のために】第8回 子供への関わりに自信が持てない問題

最近、保育現場から聞こえてくる問題で増えているのがこのようなケースです。

中堅レベルの職員が保育に意欲的でなく、子供を見ていなかったり、非常勤職員に子供の保育を押しつけて自分はどこかへ行ってしまう。

こうしたケースが少なからず起こっているようです。


これには『第3回 ベテランが困る問題の背景』で触れたことも少なからず影響しているでしょう。スキルアップの機会が適切でなかったために、その経験年数相応の力量を獲得できなかったこと。そもそも保育界が保育の力量をスキル化、言語化し伝達することが意識されていなかった問題。


今回はもう少し具体的に、こうした問題を乗り越えていく方法を模索してみましょう。

これには『第5回 高圧的な支配と優しい支配』で解説を棚上げしていたこちらと密接に関わっていますのでそこを見ながら考えていきます。

>イ、子供が要求するからと、不本意なことでもしぶしぶの許容が慢性的になるケース

イ、はしばしば「主体性の尊重」という理屈がつけられ、その状況にある保育士への指導に困難を覚えるケースをともなっていることがあります。(保護者の状況でも同様)

これは実際のところ主体性の尊重にはなっていません。
子供の安全を守るという保育の大前提に適合していませんので、それを子供の主体性と主張することには無理があります。

しかし、いま起こっている保育界のゆらぎという意味では、本当の問題はそこではなく、個々の保育者の感覚に接する部分でしょう。ですのでそこを見てみます。
実は、その基準になる点は明確です。それは、その保育者自身が不本意(しぶしぶ)であるという点です。

子供の要求が、安全上も問題なく、大人の配慮の及ぶもので、それをこころよく許容できるものであるのならば、それは主体性の尊重として成立しうるでしょう。
しかし、大人が安全とも思っておらず、日課が維持できないなど保育運営上困ることを許容するのは、主体性の尊重として成立しません。

もう少し深く考察すると、そのときの大人の主体性はどこにいってしまったの?という視点で考えてみると、思考の視野を広げてこの問題の着地点を導きやすくなるかもしれません。
主体性の尊重とは、すべての個々人を大切にするということであり、そこには当然大人側の主体性も存在するのです。大人の主体性をないことにして子供の主張だけを鵜呑みにすることは主体性の尊重にはなりません。

実はこの「主体性の尊重」の背景には、「子供の尊重」理解が適切になされている必要があります。
この子供の主張を鵜呑みにするスタンスの背後には、「子供にはどうせ伝えてもわからないよね」という低い見方が隠れていることに気づけるでしょうか。

子供の尊重とは、子供をよいしょすること=大人が下手に出ることを意味するのではなく、子供を大人と変わらない一個の人格、その主体であるととらえることがまず必要です。
このあたりの理念理解が難しいのは、保育界のみならず日本社会の特徴であるように感じます。
(保育における主体性理解については、僕の研修・講演テーマのひとつとしています。そちらにあたっていただくか、もしかするといずれ有料記事としてまとめるかもしれません)

さて、一応の文脈上「主体性」に触れましたが、このイ、の問題は実際のところ主体性とはまったく別個のところにある問題です。

イ、の状況は保育実践上の課題というよりも、保育(子育て)における「学習性無気力」の問題として存在しています。子育て支援でもこの問題はとても大きいのでそこをみていきます。

◆学習性無気力

これは、繰り返しうまくいかない経験をした結果、その取り組み自体に無気力になってしまうことを意味しています。

子育て・保育では、この状態は起こるべくして起こります。

イ、のケースで言えば、子供が危険な行為をしているときに、それをやめさせるよう何度も働きかけたが結局そのアプローチを達成できなかったという経験が繰り返された結果、最初からそのアプローチをしなくなってしまったというわけです。

これは保育で言えば、その当人の問題というよりも、周囲の保育者はなにをしていたの?という問題になります。
なぜ、その人が保育上の子供への関わりがうまくいっていない状態を察していなかったのか?
察していたとしても、それを支えたり、適切な関わり方を伝えてこなかったのか?

子育て支援で言えば、保護者がそういう状態にあることに気づけなかったのか?
そうしたときに保育者は適切な援助をしなかったのか?
そもそも、そうならないような取り組みをしてこなかったのか?

です。

このとき、「子供の姿は親の責任でしょ」「子供の姿は担任保育士の責任でしょ」といった、他罰的な見解を周囲の保育者が持っていれば、当然ながら援助的な関わりは生まれません。

お迎えの時間、我が子を見ることに無気力になっている保護者をみて、どうとらえるのか?
・「子供に無関心な愛情の薄い親だ」とモラルの側から他罰的にとらえるのか。
・「子育てで行き詰まり感を感じているようだ、なんらかの助けがないとこのままではよくないだろう」と援助的にとらえるのか。

保育者の持つ理念、姿勢しだいで、その後の関わりはまったくかわってきます。

長くなったので今回はここまでにして、次回、学習性無気力はどうやったら解決できるのか、そもそもそこにおちいらないようにするにはどういう援助ができるのかについて考えていきます。


保育士おとーちゃんこと須賀義一です。 保育や子育てについて考えたことを書いています。