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「大変」な仕事から「大切」な仕事へ戻そう。

シンクに溜まった食器を洗おうとスポンジに手をかける。しっくりくるアイディアは、キーボードの前にいるときより、歩いているときやお風呂に入っているとき、トイレに入ったとき…関係ないことをしているときの湧いてくることが多い。

そんなことを考えてたら手は自動洗いモードに突入、頭は自動探究のスイッチが入る。

「大変」な仕事から「大切」な仕事へ

昨年ツイートしたこの言葉が浮かんできた。

尊い仕事だと思って保育の世界に飛び込んでもうすぐ11年が経つ。周りを見渡せば、保育現場の「大変さ」がクローズアップされ、社会的地位は低いまま。ちょっとSNSでスクロールすれば愚痴の投稿が目に入る。

そんな現状を変えていきたいのはもちろんのこと、先日、客観的な意見として、「保育士自身がネガティブキャンペーンをしちゃってるよね」という言葉をもらったときに、妙に納得したことを思い出した。

インターンの学生からは、「大きな動きの前に町とか地区とか小さな範囲から動きを出していった方がいい」と意見が出た。簡単に多くの人とつながれる世の中だから、大きな動きに目がいってしまいがちだが、目の前のひとりを大切にすることから始まる仕事であるため、その視点は忘れてはいけないと胸に刻んだ。

愚痴や文句を言わざるを得ない背景があるとして、そういった投稿に対して思うのは、「現実で受け取ってもらえない環境にある人がいかに多いか」ということ。不特定だからこそ吐ける内容もあるがそれをたまたま目にして気分を悪くする人もいるだろう。顔も名前も出さないからそんな配慮はしないのだろうけど、とにかくどこかに吐き出したい、出してスッキリしたい、誰かに分かってもらいたいということは伝わってくる。

その瞬間の効果はあるのだろうが、長続きしない、出しても出しても負の感情が止まらない、現実の前進には繋がらない…そういったことも予測される。SNSは使い方によって、リアルな世界で必要とされる感覚のセンサーが鈍ってしまい、出口の見えないトンネルに入ってしまうこともあるのではないかと思う。

不適切な部分、本質的な課題にはしっかり向き合って解決や解消するようにするべきである。しかし、大変さがあるかどうかと、その仕事の価値は一致しない。「大変さ競争」には、きっと出口はない。

それぞれの大変さがある。互いの大変さに寄り添い、意欲につなげることは大切だと思う。けれど、その先の話ももっと出てくるといいのにとは思っている。

「何のために」保育を営んでいるのだろう?

問いにしっかり向き合えて、それぞれの背景をそのまま受け取り合うことが入り口にある文化。手の届く範囲から始めて、少しずつが広がっていくことを願いながら、食器を洗い終えた。

あんなに面倒だった家事が探究の時間になるならと、少しは前向きに取り組めるようになった気がしている。

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