第4回 「倉橋惣三に学ぶ|自己充実とは何か」
『幼稚園真諦|倉橋惣三 著』
読むたびにあふれる気づきや学びを書き留めていきたいと思います。
この本は、昭和8年(1933年)夏の
「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。
実践からきている内容であることを踏まえると、およそ100年前の状況を見ることができると言えるのですが、知らずに読んだとしたら、現代に書かれたものだと思うほどに時を越えて響く内容です。
第4回は、
幼児自身の自己充実とは何か
が書かれている部分から学んでいきます。
第1編-4 幼児生活の自己充実
幼児教育のみならず、どの教育であっても相手の生活を尊重するといったことが当時の一般の通説だったようです。
聞こえはいいものの、生活と教育の関係をどうとらえていくかで違いが出てくると。
教育をもととして、それをどう生活的にしていくかということもあったようですが、幼児教育の方向性としては以下のことではないかと書かれています。
ここには、子ども1人ひとりの自発性を尊重することもありますが、どちらかというと「生活が十分に生活らしさを発揮する環境側」に重きをおいていて、ここは幼児の社会生活にフォーカスしている部分とのこと。
生活が十分に生活らしさを発揮するためには、
「自由の要素」をできるだけ多く持たせる必要がありますが、
これは、「子どもの生活そのままの動きを不自然な点を出来るだけ避けること」と書かれています。
自由という言葉に敏感になっている保育者もいるかと思いますが、倉橋は教育目的なくして教育はないという立場を取っていますので、自由と教育の関係についても触れています。
幼児の生活をそのままにする。
自由の要素を多くする。
これは放任するということではない。
幼児自身の自己充実を信頼して、それが出来るだけ発揮できる、適切な環境が必要要件だとされています。
本文では「設備」と表現されていますが、内容は現代で言う「環境」について書かれているように受け取れます。
1930年代に倉橋が考える「環境を通しての教育」
そして、この設備(=環境)の背景には、先生の心が隠れていると。
この教育目的は環境を通しているので、子どもの生活に直接ぶつかっていきません。
しかし、どんなに環境がよく出来ていても、保育者の心づかいによっては、その間接作用が働かなくなることを倉橋は危惧しています。
幼児の生活が自己充実を十分に発揮できるような施設全体の態度が問われる。つまり、「子どもに生活の自由が十分に許されている」ものであるべきだと。
仮に、環境が自己充実の観点からは不十分だとしても、
その不十分な環境を子どもたちがぐんぐん利用するとき、この環境の効用が拡大していく。
どんなに環境が整っていたとしても、使い方が束縛されていたとしたら、
その環境の持っている効力をいっぱいに発揮することはできないということです。
自由感の意義
単に、空間的に施設が広いか狭いかというだけでは自由感は語れません。
「狭いところでも自由感があれば実に広い」
と倉橋が言うように、
その場が持つ態度、つまり保育者のあり方によって、子どもが感じる広さは変わってくるのだと思います。
どんなに広い敷地があっても、自由感が少ないならば、その広さに存在することはできないのです。
・多少いたずらをしても、服を汚しても叱られない
・少しくらいけんかをしても先生方がニコニコと見過ごしている
・恐る恐る大人の目をうかがいながら遊ぶことが少しもない
これだけでも深い意味を持つのが保育であると倉橋は言います。
しかし、1930年代の幼稚園の考え方を批判的に見ると、「先ず大切なもの」の前に、いきなり次の方へいってしまっているのではないかとも言っています。
「幼児自身の自己充実」が抜けてしまっている重点の置き方になっていないかを考えさせられるとのことです。
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子どもが主体性を発揮して生活すること自体が自己充実であり、その根本の部分を弱くして、手法や保育者の満足感に寄ってはいないだろうか。大人の側の正解を当てることを主体性として扱っていないだろうか。
見たくない、触れたくないことに直面することもあるでしょうが、そんな問いを自らに立てることも、保育の質や専門性につながるのだと私自身は考えています。
その先にある、子どもの内側から満ちあふれる喜びやいきいきさに触れるような、明るい兆しを、あたたかな光を、大切にしていく保育者で在りたいです。
ー第5回につづくー
[参考文献]
・倉橋惣三 「幼稚園真諦」(フレーベル館・1976年初版発行)
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