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読書日記その538 「土を喰らう十二ヵ月」 小説版

映画がとても良かったのでノベライズ版を読んだ。映画を観ただけでは、忘れてしまったり、また気づかず観逃したりしてる部分があるので、ノベライズされてるとうれしい。

旬を食べるとは 「土を喰らうこと」

秋に収穫した里芋の小芋は、掘り上げたあと親芋につけたまま逆さまにして土に埋めて保存する。すると長い冬のあいだに土の香りが小芋にうつり、うまさが増すのだそうだ。

畑と台所は典座によってつながってなければならぬ、という。それは畑で採れた旬の食材を、市場などの流通を通さずに、土の香りが残るそのままを台所で調理すること。まさに「土を喰らう」ということだ。

ボクはそれを読んで、子どものころに祖母が育てた枝豆を思い出した。毎年夏になると祖母が採れたての枝豆をくれるのだ。畑から抜いたばかりの状態なので、豆はもちろん枝についたまま。その豆を枝からもぐのが、ボクと弟の仕事だった。

枝豆の根や葉や茎には、畑の土がそのままついていた。そして豆をもいでいると、ボクはその土の香りを無意識に感じた。まだ子どもだったので、その時はとくに土の香りを意識することはなかったが、大人になって思い返すと、あれが畑の土の香りだったことに気づく。

そして母は、ボクと弟がもいだ枝豆をすぐに茹でてくれた。その茹でたての枝豆が最高に美味しかったのを、夏の思い出として今でも覚えている。畑から採れたばかりの旬の食材を、まだ土の香りが残ったまま、すぐに台所で調理をして食する。子どものころは普通にあったことが、今になるとあれは本当にぜいたくなことだったと思いなおすのだ。

死生観

みんな死んでいった。妻も友人たちも作家仲間も順番に死んでいく。だが自分の番となると死ぬのが嫌なのだ。怖いのである。生まれたからには死なねばならぬ。(中略)ただ死ぬばかり。そこで思うのだが嫌な死と仲良くなれぬものか。そうなれば死はそれほど嫌でもなく、また怖いものでもなく友達のように、いつも側にいてくれるような気がする。

「土を喰らう十二ヵ月」抜粋

心筋梗塞から、九死に一生を得たツトムはそれを境に、誰もが恐れる「死」を受け入れるようになるのだ。もちろん「死」が怖いのは変わらない。しかし誰にでも必ずやって来る「死」を受け入れ、自分の中で消化することによって、少しでも穏やかに「死」をむかえられるのでは、とツトムは考えるのだ。

なかなかお墓におさめることができず、ずっと手元に置いていた八重子の遺骨を湖にまく。いっしょに住むことを決意した真知子に、同居をことわる。毎晩寝るまえに、お世話になった人たちにお別れのことばをとなえる。

「みなさん、さようなら」

しょせん人間なんてものは、生まれて、食べて、死んでいくだけだ。ひとりの人間がどう考え、どう生きて、どうなろうと、この広大な宇宙から見たら本当にちっぽけなものである。

とはいえ、人間は自ら生み出した社会に属しているいじょう、人と関わり、懸命に働き、時間に追われ、その中で喜びや悲しみや悩みを抱えながら、さまざまな経験を積み上げて生きていかねばならない。若いうちはそれで良い。それが可能だからだ。その経験の中には、自分の糧となることもあるはずだ。若いころの人生は足し算なのだ。

ところが、歳を重ねるとどこかの地点から引き算に変わる。ムダなものをそぎ落としていかないと、気力体力がもたなくなるのだ。本書で描かれているツトムの生き方は、川に水が流れるように、おのれの環境に逆らうことなく、まさにその引き算を繰り返した結果であり、人生のあるべき姿のひとつの最終形ではないだろうか。

〜おまけ〜

せわしなく働く真知子の職場で鳴りひびく電話の音を、本書は「人間を追い込んで捕らえる狩りの音」と表現している。これは現代のストレス社会を皮肉ることばとして、言い得て妙で納得する。うんうん。

ボクは携帯に電話がかかってきたら、必ずいったん見送る派だ。電話に振り回されるのがイヤなのだ。こんなワガママが通るのも、セミリタイアした者の特権だな……ははは💦







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