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「朽ちた華」と通念化の衝動

花は美しい。
でも、華やかに美しくその花の写真を撮るという行為には疑問を感じていた。それはカメラを手にした若い日から続いていた。
なんと表現してよいのかわからなかったので、とくにその疑問を突き詰めて考えたことはなかったけど、「通念化の衝動」という言葉で表されていたので、忘れないうちに書き残す。

これはストックフォトとして売れたことがあるアマリリス

5年前に買って積読になっていた『日本語の作文技術』を改めて読んだ。
本の感想はさておき、気になった部分が伊藤整氏の引用部分。

野間宏氏編による『小説の書き方』という本がある。~(中略)~この中で伊藤整氏は次のようなことを書いている。

 菫の花を見ると、「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、菫の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な不安な気持ちをいだくのである。しかし、その一瞬後には、私は常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ「可憐な」という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負を決定するところだ、と私は思っている。その一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。

『日本語の作文技術』(新版) 本田勝一

これはあくまで文章表現についての話だけど、写真表現に関する説明としても成立しているような気がする。

通念に踏みつけられる前に

ファインダーを覗いてシャッターを切る瞬間は、さながら「通念に踏みつけられる瞬間」の狭間のよう。

「ありきたりなんじゃないか」
「へたくそなんじゃないか」
「美しくないんじゃないか」
「構図がイマイチなんじゃないか」

そんなことを「誰か」に言われるかもしれない、という恐れから逃れようともがいて、シャッターボタンを押し続け、やがてあきらめて立ち去る。そしてまた、綺麗に咲いている花を見ては、少しでも状態のいいもの、背景に汚い朽ちた花弁や葉や土が見えないアングルを探して回る。

花の写真を撮っていると、あっという間に通念に踏みつけられて、その花を見た瞬間に感じた美しさやその時に心に響いた印象を救い上げるなんてことをはおろか、目的を見失ってレンズの描写やカメラの性能の良し悪しを気にする時間が増えてしまう。

好んで花の写真を撮ってこなかったのは、そんなことだったのかもしれない。

写真であることすら忘れるぐらい

自分が好きな写真があるとしたら、それは写真であることを忘れさせてくれるぐらい対象に引き込まれるような作品だと思う。

先の引用部分は同書の「第8章 無神経な文章」と題された「1 紋切型」の節に出てくる。手垢のついた紋切型の表現をちりばめて、読者がどう感じるかではなく自分が言いたいことを借り物の表現でしたためた文章を「無神経」と詰っているのが、独特の毒舌でおもしろい。

ほかにも、

落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聞き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。観客が笑いころげるような舞台では落語家は表情のどんな微細な部分においても、絶対に笑ってはならない。
(中略)
まったく同じことが文章についてもいえるのだ。おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体が面白いときであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何にもならない。美しい風景自体は決して「美しい」と叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。野間宏氏は、このあたりのことを次のように説明している。

 文章というものは、このように自分の言葉をもって対象にせまり、対象をとらえるのであるが、それが出来あがったときには、むしろ文章の方は消え、対象の方がそこにはっきりと浮かび上がってくるというようにならなければいけないのである。対象の特徴そのものが、その特徴の含んでいる力によって人に迫ってくるようになれば、そのとき、その文章はすぐれた文章といえるのである。(『文章入門』)

『日本語の作文技術』(新版) 本田勝一

例えば、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「サン=ラザール駅裏」とか、ロベール・ドアノーの「パリ市庁舎前のキス」なんかが、“対象の特徴そのものが、その特徴の含んでいる力によって人に迫ってくるよう”な写真なんだと思う。(リンク先はGoogleの画像検索です)

冬は寒椿ぐらいしかまともに咲いてない

気温の低い冬の住宅街でわずかな陽の光に照らされた寒椿を撮るとしても、図鑑の写真を撮るわけではないので「冬の寒さ」として自分が感じた気持ちは、下の写真の方が表現として適切な気がする。“カンツバキの通念”に踏みつけられる前に、朽ちた華が放つ寒々しさを自分のモノにする、直観的撮影のほうが自分の好きな写真に近づく気がする。

実際には陽の当たらない生垣にされた寒椿が、落ちずに朽ちているのをよく見かける

本田勝一氏の『日本語の作文技術』は、今となってはいろいろ評価が分かれる点があるので、5年も放置してしまった。でも、インターネットにあふれる編集もされていない文章をファーストフードを消費するようなものだとしたら、料理人が技術をふるって作られる料理にはちゃんとした味わい方があることを思い出させてくれる。そんな良書でした。

蛇足↓

カフェの店先のこういうディスプレイは通念化を通り越して記号化してるかのよう


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