Twitterのプロフィールと自分を悩ませるものについて。


Twitterのフォロワーさんが、ほげほげざえもんのプロフィールを解読しようと試みたようなので、解説することにした。こんな記事を書いても需要がないし自己満足だけど暇なので。

まず、「存在すらしなかった原風景を追い求めて、」という入りである。原風景というのは、追い求めるもののイメージのことを指している。

希求していたものを実際に手にしたとき、こんなはずじゃなかったとなるとか、理想的すぎる現実的にあり得ない想定をしているとか。過去の遺物を夢見ているとか。あるいは、一瞬だけ過去に手に入れた、存在したはずの何かを再現をしようとしているとか。或いは最初からそんなものは勘違いだったとか。

自分は、絶対に手にし得ないと分かっていながら燃え尽きる傾向が強いなとなんとなく思っている。やるしかないだろうと負け戦を挑むのは意地ですよ意地。

そういえば、フロイトだったかラカンだったか忘れたけど、ある患者の有名な話があるよね。あれよあれ。

次に「運命づけられた敗北を積み重ねていく。」とくる。実際に存在しないものを探してもがくのだから、最初からその闘いは敗北が決められている。それを積み重ねることによってしか人は生きられない。そんな状況に自覚的にならざるを得ない。でも誰しもが経験するのではないだろうか。だって、手に入れられないからこそ欲しくなるのだから。

ちなみに自分が原風景として憧れていたのは、10年代には無くなっていた某大学での自治空間と、どこかにあったはずの決して手にすることのなかった青春キャンパスライフでした。

そして、友達から縁を切られ、あるいは自分から縁を切り、人間関係を持続できなかったという悔しい思いを抱えて、結局また敗北するのか…。と思いつつ新しい知り合いを増やしていく積み重ねていくわけよ。

そして「過去に通じ合えたという瞬間を共有しているだけの関係が、呼びかけに応じて稀に再度集結する程度の、その呼びかけがかろうじて届く程度のつながりを生成するための手段を模索する。」という長い文章がある。ストレートに表現するのでは気恥ずかしいし、文字制限があるので、こうなってしまった。とても分かりにくい。けど、分かってくれる人だけ良いと思ってくれれば本望だ。

まあ要するに「〜するための手段を模索する」と言いたいわけ。例えそれが敗北を約束させられているにしても。で、何がしたいか?主語(「関係が」)と述語(「つながりを生成する」)の関係をきちんとみてほしい。一度、お近付きになった関係が、ずっとつながりを維持し続けてほしいということ。どのような細い線であれ切れないでほしいと思っている。アクセスできる手段さえ維持されていればいつかまた…。

最後に、「見知らぬ他者と未知なる責任のために言葉を探し、非暴力を定義する。」と書いてみた。

見知った他者について責任を負うのは当然のこととして、自分自身の生活を構成する何某かにもう少し思いを馳せても良いのではないかと思う。

システムによる被害者であることを主張するのであれば、同時に加害者でしかないことも直視して受け入れなければならない。これを言語化して変革に繋げていきたいと思う。

自覚し得ぬ未知なる責任の中に飛び込み、誰かを傷つけざるを得ないことを引き受けることが重要だ。暴力は簡単に定義できるが、実は非暴力な状態は定義することができない。自分にとっての非暴力が誰かにとっての暴力である可能性を捨てきれない。よって、よりマシな暴力を選択することしか叶わない。非暴力は暴力の一種の形態とも言える。

だいたい、ほげほげの関心ごととはこんなところ。自分を悩ませる問題について分かっていただけただろうか。

「存在すらしなかった原風景を追い求めて、運命づけられた敗北を積み重ねていく。過去に通じ合えたという瞬間を共有しているだけの関係が、呼びかけに応じて稀に再度集結する程度の、その呼びかけがかろうじて届く程度のつながりを生成するための手段を模索する。見知らぬ他者と未知なる責任のために言葉を探し、非暴力を定義する。」

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