なぜ「評論家」や「インフルエンサー」は社会にとって害悪になりうるのか?:ケインズの「美人投票」

本稿は本質的に非常に学術的であるため、極力直感的に理解できるよう心掛けたい。


美人投票とグローバル・ゲーム

ケインズによる「美人投票」という議論があり、ウィキペディアにも紹介されている。

経済学者のジョン・メイナード・ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』第12章第5節で、金融市場における投資家の行動パターンを表すたとえ話として示したことから使われるようになった。

ケインズは、玄人筋の行う投資は「100枚の写真の中から最も美人だと思う人に投票してもらい、最も投票が多かった人に投票した人達に賞品を与える新聞投票」に見立てることができるとし、この場合「投票者は自分自身が美人だと思う人へ投票するのではなく、平均的に美人だと思われる人へ投票するようになる」とした。

これを金融市場に当てはめると、基本的にはファンダメンタルズが反映され適正な値段として反映されるはずだが、実際は必ずしも業績のよい投資対象が高く、そうでない投資対象が安いとは限らず、その時々の投資対象に対する風評や先行きの期待感・失望感、あるいは需給関係などによって動く要素が多い。すなわち、自分以外の多くの人々の人気投票の結果が価格であるという意味である。

美人投票でのナッシュ均衡は、ちょうど美人候補の立候補者数だけ存在し、一人の候補者に全ての票が集まるというものになる。この中には、「美人の対極に位置すると投票者の誰もが考える候補に、票が集中」という極端に常識に合わないものも含まれる。なぜなら、正直な投票者が数人票を動かしても結果は変わらず、票を動かした投票者は「最も投票が多かった人」の的中に失敗するからである。このため、誰も美人の対極への投票を変更することができない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/美人投票

この「美人投票」をもう少し一般化し現代化したものがグローバル・ゲームと呼ばれるものである。

設定はプレーヤーが多数存在し、それぞれが社会・経済についての何らかの「数値」についてノイズが含まれており他人から観察されない情報(「私的情報」)を取得する。プレーヤーはその情報に基づいてなるべく真実に近い数値を提示したいのだが、同時にその他のプレーヤーと自分の数値がなるべく近いものにしたいという欲求も持っている。そして、このゲームには共有知識としての「公的情報」が存在し、これも真実の値に一定のノイズが含まれている。各プレーヤーはこの2つの数値を元に、何らかの数値を提示する。私的情報のノイズは平均0で分散αの正規分布に従い、公的情報のノイズも平均0で分散βとする。これらの事実も共有知識とする

もしこのゲームが、プレーヤーがなるべく正しい値を提示すれば良いというだけのものであれば、結論は非常に簡単になる。直感的には、私的情報と公的情報2つ情報を、その精度の高さ(αとβ)を考慮して、2つのバランスを取った値を提示すればよい。もし私的情報の方が精度が高ければ(αがβより小さければ)、より私的情報に近い値を採用する。逆の場合は逆である。単純に言えば精度が悪い情報であっても、私的情報に公的情報という新しい情報が付け加わるので、その精度に応じて人々の予測は正確なものになり、人々は満足度や利益は大きくなる。

しかし、このゲームが上記の美人投票ならどうなるだろうか?

人々はとにかく世間の平均と近い値を提示すれば満足度や利益が高まる。この場合、プレーヤーは公的情報を提示することになる。自分以外の人も合理的であり、私的情報のノイズしか違いがないため、自分以外のプレーヤーが提示する値はやはり公的情報とそれぞれの私的情報について何らかのウェイトをとった加重平均になっている。自分から見ると、世間の人の提示する数値は、公的情報を中心としてその周りに私的情報のノイズの分だけ正規分布することになる。そうだとするならば、世間との平均的な違いを最小化するには、正規分布の中心である公的情報を提示すれば良い。そして、このことは全員について当てはまるので、全員が全員、公的情報を提示することになる。この極端なケースでは私的情報が意味を持たないのである。

より一般的なケースとして、上の2つの極端なケースの中間を考える。人々は自分の提示する値を真実の値になるべく近づけたいが、同時に世間との違いもなるべく小さくしたい。結論は簡単で、上の2つのケースの間に最適な提示する数値が決まる。どちらに近いかは、2つの欲求が相対的に片方がどれだけ強いのかに依存して決まる。

別の言い方をすれば、自分の提示する数値を世間の平均に近づけたいという欲求を持つと、その欲求がない場合に比べて公的情報をより重視することになる。そして、その欲求が強ければ強いほど、公的情報への依存度が高まる


SNSという「意見表明のゲーム」

それでは、上の「一般化された美人投票」をSNSというゲームに置き換えてみよう。人々は、色々なことについて自分の意見・価値観を持っていて、なるべく正直に自分の意見を言いたいという欲求を持っている。しかし、SNSという舞台では、あまりに世間一般から乖離した意見を言うと、白い目で見られたり相手にされなくなるかもしれない…そうすると、なるべく「無難」な意見に寄せていくことになる。

だが、無難な意見とは何だろうか? それが分かるのならば苦労はしない。しかし、SNSに「インフルエンサー」という存在が登場すると、途端に状況が変わってくる。インフルエンサーは多くの人々に自分の意見を提示する。インターネット上のことなので、これは共有知識である。もし、その界隈でインフルエンサーが1人しかいないのなら、これが唯一の「公的情報」となり、「フォロワー」はインフルエンサーの意見に過剰に自分を寄せていくことになる。「過剰」とは、本来世間との乖離を気にせずとにかく自分が最も正しいと思うものを発言しようとした場合に自分の意見とインフルエンサーの意見を按排したものよりも、よりインフルエンサーの意見に近いものであるという意味である。

そして、もし他人の行動を所与として自分の満足度を最大化したいのならば、これで何も問題はない。

しかし、インフルエンサーの意見に過度に依存しているため、必然的に世間一般が提示する意見は、インフルエンサーの意見に過剰に寄ってしまい、真実の値からバイアスが生じることになる。この場合、SNSユーザーの意見を集約して平均値を出しても、必ずインフルエンサーの意見に偏ったものになってしまう…

同じようなことは、1人のインフルエンサーだけでなく、「○○の評論家(専門家)××人に聞きました」式の情報でも同じような事が起こる。この××人が十分大きく、「意見」が何らかの数字の様なものであれば問題は少ない。なぜなら、その公表された評論家の集計された意見は「平均値」として公表され、人数が十分に多ければそれは真実の値に十分近づくからである。視聴者・読者が評論家集団の平均値に意見を摺り寄せていったとしても、その平均値は自分の意見よりも十分に真実に近いからである。

しかし、現実的にはこういった情報は上の様な条件を満たしていない。そもそも情報収集のコストから評論家の人数は限定される。また、評論家の意見は荒い形で集計化されており、細かいニュアンスやディテイルが欠如したものであるのが普通である。そして、評論家自身もまた「評論家業界」の中で上の美人投票ゲームをやっていたりする(笑)

これは別に業界との癒着とか忖度がなくても発生するバイアスなのである。


真実を求める人はどうすれば良いのか?:人の意見ではなく、それを導く論理を聞くこと

上の様なゲームでは、「フォロワー」は全員同じだと単純化されていた。それなら、皆そこそこ世間と妥協したい人たちなのだから、「インフルエンサー」だの「評論家」だのに摺り寄せた意見を持てばよい。

悲惨なのは、そういう業界に紛れ込んでしまった「真実を知りたい人」である。その人は自分の意見を持っているが、十分賢いのでそれがかなりのノイズを持っていることも知っている。それではなるべく多くの人と交流して意見を集約していったとしても、「インフルエンサー」「評論家」そして「マスコミ」の提示する意見に偏ったものしか出てこない。

理論上は、人々が世間の同調圧力の強さとそれへの人々の感受性を計算し、「インフルエンサー」達の意見も調べたうえで、そちらに寄せられているバイアスの程度を導き、その影響を除去するというものになる。しかし、こんな複雑な計算は現実的ではない。現実には「インフルエンサー」もそこそこいるし、そもそも今自分が意見を聞いている人が「どのインフルエンサー」から「どの程度」影響を受けているのかなんて知りようがない。

それでは、どうすれば良いのだろうか?

結論は凡庸なものだ。それは、正しい情報を得るためにそれ相応のコストを払う、というものだ。もちろん、それが学校で学べるような類のモノであれば、時間とカネをかけて学びに行けばよい。

しかし、正しい情報が世間の多くの人の間で散らばっていたらどうか?
例えば、人々がある政策や社会の事象に対して「本当は」どのように感じているのかを知りたいという場合だ。

もちろん、それには人々に話を聞くしかないのだが、人々はすでに「インフルエンサー」に毒されている。それを取り除くには、人々の意見を詳しく聞き、どの様な根拠でその結論に至ったかを理解することだ。そうすれば、いかに多くの人が無根拠に、あるいは間違った論理で結論を導いていることを知ることができる。そして、その滅茶苦茶な論理構成をリバース・エンジニアリングしていけば、その人が心の底に持っている「本当の意見」、に近いものを取り出せる、かもしれない。それも「十分に多い」相手にこの聞き取り調査をしなければならない。しかも、そんな面倒ごとに付き合ってくれるのは暇人か変わり者なので、やっぱりそのバイアスも考慮する必要がある。

こんな面倒なことをするぐらいなら、学校でお勉強でもしていた方が100倍楽だろう(笑)

1つだけ確実に言えるとしたら、「皆が言っているから」とか、「あのインフルエンサーが言っていたから」とか、「あのマスコミでこう言われていたから」とか言う人間の意見は、決して信じてはいけない、ということだろう


参考文献

荒戸寛樹, and 中嶋智之. 共有知識の不完全性とマクロ経済学. 岩波書店, 2010.

小谷学. "アナリスト予想値の性質と公的情報の影響." 会計プログレス 2015.16 (2015): 17-29.

中村友哉(2014)「証券市場における情報公開が市場参加者の行動と社会厚生に与える影響」『金融庁金融研究センター(FSAリサーチレビュー)』第8号

盛本圭一. "経済主体の事前的異質性と戦略的環境における情報利用: 美人投票ゲームの場合." 明星大学経済学研究紀要 43.1 (2011): 1-9.

Morris, Stephen, and Hyun Song Shin. "Social value of public information." american economic review 92.5 (2002): 1521-1534.


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