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「配慮」と「特別扱い」

様々な場面の中で「配慮」という言葉を多く見かけるようになりました。

weblio辞書によると『配慮(はいりょ)とは、事情をふまえて、気遣いのこもった取り計らいをすることを意味する語である。』(一部引用)とのこと。思い返せば普段相手に対してこの「配慮」ということを頻繁にしていると思う方も多いのではないでしょうか。

例えば「電車やバスの中で相手に席を譲る」のも配慮のひとつです。今では当たり前になりましたが、特定の場所での禁煙や分煙も喫煙者目線では、非喫煙者に対しての「配慮」でした。今では非喫煙者の立場の方が強くなり、逆に喫煙者に吸える場所を提供する「配慮」になっています。

どのような場面にしても、相手の気持ちを考えて、相手の居心地が悪くならないように環境をある程度整えてあげる事が「配慮」なのだと私なりに解釈しています。

しかしながら、「ある程度」というのが難しいところです。マイノリティに対して周囲が配慮するのは良い事ですが、配慮によって逆に周囲の居心地が悪くなる場合もあります。不満を漏らす人も出てくるでしょう。そこで必要なのが「歩み寄り」です。十人十色の事情があります。関わる人数が増えれば増えるほど、全員が納得できることなど皆無と言っても過言ではありません。

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日本人の心「おもてなし」や「気遣い」は、相手が気づかない程度に行うのが美徳であり、相手にアピールするのは単なる「押しつけ」「恩着せがましい」となってしまいます。ただ、配慮はこっそりというよりも、周囲も巻き込んでみんなで納得して行う、もちろんそれが自然とできることが当たり前の世の中になっていくのが一番良い形だと考えます。


さて、では配慮される側はどうでしょうか。

様々なマイノリティは、知らされなければわからないこともあります。

だからといって、言いにくいこと、言いたくないことは言う必要もないですが、逆にその環境の状況も考えず、何かをカミングアウトして配慮を求めるのも、突然の事だとどのような配慮を求められているのか受け止めきれず、どのような配慮をしてあげられるのか、悩んでしまいます。

困っている人たち・悩んでいる人たちに何をしてあげられるか、何をしてあげたら喜んでもらえるのか、と日々考えていますが、「配慮されて当たり前なので」という考えが見え隠れしている方もいらっしゃいます。

もちろんできる限りのことはしたいと考えます。ただ、限界はあります。強く配慮を求めると「特別扱いしてほしい」と思っているのではないか、という印象も与えてしまいます。

「配慮」は「特別扱い」とはその性質は全く非なるものです。

ですから、本当に全てが「歩み寄り」によって解決・軽減していけると、私は強く思います。

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「配慮」は相手を思う気持ちがあってこそできること。担い手が進んで行うこと。

「特別扱い」は気持ちがなくても自動的にそうせざるを得ないもの。受け手からの要望やその立場(役職など)によるものが多い。

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私はこのように考えています。



実際、「配慮」すべきところを「特別扱い」という間違った方法をとってしまうことも目にすることがあります。これは担い手が単に「気持ちよくなる」だけのことです。

「配慮」に自分へのメリットデメリットなど存在しません。

しかし、大きく勘違いしている人は「自分がしてあげたことで、自分の評価が上がる」といったとてつもなく非常識な考えを持っていて、相手を慮るどころか、第一優先は「第三者の自分に対する評価」だったりします。いい人、優しい人、できる人、などと言う印象を周囲に植え付けたいのでしょう。(私が知っている中で、こういった方の周囲の評価は低いのですが。)


まとまらない文章になってしまいましたが、「配慮」と「特別扱い」をはき違えると、ねじ曲がった方向に進んでいってしまう、ということを私はお伝えしたくて、思ったことをつらつらと綴りました。

全ては「心」「歩み寄り」から始まります。

#配慮 #特別扱い #マイノリティ #歩み寄り #心




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