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学校における男子をめぐる問題

教育現場において「男子問題」に関心が向けられるようになったのは、ごく最近のことだ。少なくとも1990年代半ばまでは、「ジェンダー問題」といえばほぼ「女子問題」であると見なされてきた。そのもっとも大きな理由は、男子よりも女子の方が教育上不利を被っているという見方が大きかったことである。日本における進学率の男女差は、高校レペルでは1970年代に、大学・短大では1980年代に解消したが、男子では高校進学者のほとんどが大学に進学するのに対して女子では半分以上が短大に進学するという傾向が1990年代まで続いていた。

しかし、1990年代後半になると、まずは成人男性が直面する「男性問題」に社会的な関心が向けられるようになった。これらは、大きく分けてふたつの側面からフォーカスできる。ひとつは、男性が「女性問題」を引き起こしている側面である。例えば、DVやセクハラのほとんどは、男性から女性への加害ケースである。従来「女性問題」として語られてきたこれらの問題は、男性が引き起こしているという意味では男性の問題でもある。もうひとつは、男性自身が「男らしさ」の社会的期待に苦しんでいるという側面である。例えば、バブル経済崩壊後の1990年代になると、男性の賃金の伸び悩みや失業・就職難が深刻化し、男性に一家の大黒柱な役割を求める性別的な分業は、少なからず男性にとって圧力と感じられるようになった。
こうして成人の男性問題が顕在化するなかで、学校における男子問題にも関心が向けられるようになった。例えば、従来から、教室で見られる「自己主張する男子とひかえめな女子」というアシンメトリーな男女関係の形成には、教師による半ば無意図的な差別的な処遇が関わっていることが指摘されているように思う。しかし、教室内での男子と女子の相互作用に着目した分野では、そうした男女の非対称な関係の形成に、教室という空間の支配権を握ろうとして教師や女子に不満をぶつけたり攻撃したりする男子のパフォーマンスも関与していることを明らかにした。

また、社会や学校から向けられる「男らしさ」の期待にそえずに苦しんでいる男子、とりわけ学業においてもスポーツにおいても自信が持てず、まわりから孤立している男子の存在が注目され、こうした男子をどう援助していくのかも模索されるようになってきた。
 アメリカでは、1990年代半ば以降、男子の学業不振や学校不適合などを理由として、「男子も問題を抱えている」というレペルにとどまらず、「男子のほうが不利である」という主張が声高に叫ばれるようになってきた。たしかに、国際学習到達度調査(PISA)の結果を見てみると、ほとんどの参加国で、「読解力」に関する男子の平均得点は女子のそれをはるかに下回っている。また、女子の方が大学進学タイプの中等教育学校へ進学する割合が高いことや、学習活動への積極的な参加といった学校への適応度が高い傾向がアメリカやヨーロッパで報告されている。

こうしたなか、オーストラリアでは、今までの学校教育は男子の教育ニーズを十分に満たしていないとする連邦議会の報告書を受けて、2003年から莫大な国家予算をつぎ込んで、男子への効果的なリテラシー教育や同性の指導者から援助をうける機会の提供など、男子の教育プログラムが開始されている。
 しかし、この「男子の不利」という見方に対しては、批判的な人も多い。「男子の不利」という見方は、働く場所における女性の圧倒的に不利な状況や、男子からの暴力やセクハラによって苦しんでいる女子の問題を見えなくさせてしまう。また、男子であれ女子であれ、教育達成を首尾よくなしとげている者もいれば、不利な生活環境のもとで学校生活への適応が困難になっている者もいる。そうしたなかで、男子と女子をそれぞれひとくくりにして、「不利なのは男子か女子か」「援助すべきは男子か女子か」といった二者択一で問題をとらえること自体に限界がある。
 日本では、現在のところ、人々の関心はむしろ若い男性の就職難に向けられており、アメリカやヨーロッパほどに学齢期の「男子の不利」を主張する動きは見られない。しかし、女子に対する男子の学業不振をうかがわせる高校生のデータもあり、今性別によって教育達成や職業達成のチャンスが大きく異なるという構造的な側面を見すえながらも、同時に、同性内の多様性や不平等にも目を向け、どのような層の子どもたちがどのような援助を必要としているかを冷静に見極めていくことが求められていくことであろう。

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