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夜勤明けの21km (上)

■2017年11月4日 土曜日・夜勤明け

午後2時。

少し流す程度に走ろう。

いつもの川を目指す。夜勤明けだし無理は禁物。軽くデトックスするくらいの気持ちで、と自分に言い聞かせる。

申し分ない天候だった。爽やかな、まさに秋晴れというやつだ。釣り人の表情もいつになく明るく見える(彼らはそういった感情をあまり表には出さないのだが)。彼らの持つ釣竿もまた、逞しく雄々しく見える。

さて、命とは不思議なものだ。

僕は走りながらぼんやりと思った(秋晴れはいろんな思索を巡らせるのに向いている)。こうして一歩一歩、足を進めるたびに、命が一歩一歩とながらえている、というか生かされている、というか。

だから感謝しなくちゃな、とか今を大事にして生きよう、とか、そういう風には思わなかった。ただ、一歩を踏み出すたびに僕はまた、生きているのだとすればそれは、やっぱり不思議だな、と。

村上春樹は自分の墓標に「少なくとも最後まで歩かなかった」と記すことを希望した(と本で読んだ)。ならば僕は、と考える。偉業は達成していない。しかし生きた。だから、「ここまで生きた」なんていうのはどうだろう。

あれこれ考えながら、それほど速くないペースで進む。走っている時、僕は小さなきっかけからいろんなことに思いを巡らせる。それはもう、癖のようなものなのかもしれない。他の人も同じように、走っている時にイマジネーションを膨らませているのだろうか。

例えば捨てられた風呂の蓋やハンドバッグ、くしゃくしゃのマスク、古いジュースの空き缶。そういったものからそれが捨てられた状況を思い描いてみたり。それらをモチーフにした物語を考えてみたり。

もしかしたら僕の感受性は「走っている時に限り」割と豊かになるのかもしれない。ある種のホルモンのようなものの分泌が亢進し、普段は気にもかけないような事象に強く反応するのかも。走ることで何かしらの才能が惹起されるのだとしたら、とても素敵なことではないか。

ただ残念なことに、そのように走っている時に思いつくことの多くは、走り終わったと同時に、まるで滑り落ちていくように消え去っていく。僕は慌ててそれらを拾いあげようとする。両腕からばさっと落ちた書類の束の全部を元どおりに腕の中に収めようとする。しかしそれはどうしてもうまくいかないのだ。

走り終わって家に着くと、とにかく汗まみれのウェアは脱ぎたいし、シャワーを浴びてさっぱりしたい。熱くなった膝やふくらはぎは入念にアイシングやマッサージをしたい。だから、素敵な感受性によって得られたいろいろなものは、僕の中のメモリに保存された状態でしばらくそのままになったままだ。

残念ながらこのメモリは機能的に優れたものではないので、悠長にシャワーなんぞ浴びていたら汗と一緒にほとんど中身がなくなってしまう。いや、実のところ、折り返し地点を過ぎてしまえばもう、前半部分で得たイマジネーションの半分以上は失われているように思う。

走りながら思いついたことを録音できたら、なんて考えたりもするけど、それはなかなか奇妙だし不気味だし、ある程度走りにも影響が出そうだ。それに、1,2時間分の録音をあとで振り返りつつ文章に起こすなんて作業を僕がやるわけないのだ。残念。

せめてものあがき。シャワーのあとにどうにか覚えていること、頭の中に残っているセンテンス。それらをメモに書き出す。今もそれを見ながらこの記録を書いている。

・・・のだが、とんでもなく取り留めのない前置きしか書けていない。本当はハーフを走り終えたのでそのことを記録しておきたかっただけなのに。

というわけで、ハーフについての記事は次回、改めて。



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