言の葉を「紡ぐ」ということ。
言の葉を紡ぐ、ということ。
話すとき。書くとき。思考の海の中で、曖昧なままにふんわりと漂う「もや」の中からピッ・・・と、細く洗練された一筋を引き出してくるということ。
紡ぎ出された言の葉は、糸となり、紡ぎ手の「意図」としてその色、長さ、太さを他者からつぶさに観察されることとなる。衆目にさらされた糸は、しかし、その様相を紡ぎ手の「意図」そのままに見てもらえるとは限らない。
故に、慎重に。しかし迅速に。
一生をかけて紡ぎ出された言の葉は、無数の糸としてあなたの周りを取り巻き、撚り合され、織り合わされ・・・一領の衣としてその身を包むこととなる。
一度、試しに身近な人々が身に着けている「衣」とその衣を構成する「糸」について思いを馳せてみると面白いかもしれない。
単色のみのコーディネートは安定感があって良いものだが、しかし退屈ではある。「その色のみしか持ち合わせていない人」なのだと感じてしまう。
かといってサイケデリックで極彩色な衣はどうか?これもまた一歩後退ってしまうように思う。「着飾るのがお好きなんですね」と。
いま紡いでいるこの糸が、果たして自身の衣に織り合わされた時にどうなるのか。どう見えるのか。
もちろん、思うままに紡ぎ続けてみるのも良いかもしれないが、自身をどうコーディネートしていくのかを意識して言葉を紡ぎ出してみるのもまた大事なことなのだろうと思う。
私などは、逆に、良く思われたい人々への「見栄え」を意識しすぎるあまり、紡ぐ糸の本数も少なく、また長さすらも短いものになりがちな傾向がある。圧倒的な糸不足。さぞ私を覆う衣は布面積が小さいことであろう。
もうすぐ本格的な冬がやってくる。雪が降る前に、あったかい衣を身に纏えるようになっておきたい。