見出し画像

ホッケータウン インタビュー 松村 洋介氏 U-15 男子日本代表ヘッドコーチ (岩手県)

全国で通用したことが、自信に繋がった

私がホッケーを始めたのは小学校1年生の頃です。
私には5つ上の兄がおりまして、兄はスポーツ少年団でホッケーをやっていました。
兄の練習に付き合ってスティックに触れたことが、私のホッケーとの出逢いです。
当時は、兄の一方的な指導を受けた時期だったので「面白くなかった」印象です(笑)。

気持ちが変わったのは小学校6年生の時です。その年、ホッケーの2004年全国大会が秋田県で行われました。
全国の都道府県優勝チームのみの参加が基本だったのですが、隣県として
オープン参加の位置付けで私の所属していたチームも参加させてもらいました。

そこで、全国の同年代のトップチームの人たちと試合をする中で、岩手町という人口12,000人くらいの小さな田舎町で生まれ育った自分の実力が通用したことは大きな自信になりました。

そしてその気づきから“ もっと練習すれば全国一になれるのではないか。” と思うことが出来たことが、ホッケーとの向き合い方が変わったターニングポイントです。

小学校卒業後、中学校までは岩手町におり、高校からは天理高校~天理大学に進学しました。岩手を離れて7年間奈良県におりました。

当初は岩手県を離れて天理高校に進学するという前例はありませんでした。
岩手県には沼宮内高等学校、不来方高等学校という2つのホッケー名門校があるのですが、同期と一緒にいずれかの高校に進学するというのが王道でした。

そんな王道を選ばずに天理高校に進学した私は一時「非県民」扱いされました。
地元のホッケー場に両親が顔を出せば「なんで天理高校行ったくせに、ここに来たんだ」と皮肉を言われたりもしていました。

そんな私の転機は、大学4年生の時(2014年)です。地元で2016年に行われることが決まっていた岩手国体をきっかけに、岩手の先生方に地元に帰って就職してみないか と声をかけてもらいました。

当時は教員になろうという思いは全くありませんでした。
もちろん、教員採用試験に受かる気もしませんでした。
受かる気はしていなかったのですが、国体に合わせて「スポーツ特別選考枠」という枠が増えていたのです。

地元への、恩返し

書類選考と面接という試験だったのですが、そちらで無事採用して合格をもらいました。

地元に帰るか、選手として競技を続けるか。大学4年生の22歳にしながら、競技のセカンドキャリアを考えました。海外遠征にも何度か連れて行ってもらっていたので、ホッケー(選手として)だけで生きていくのは難しいということは感じていました。

ホッケーを指導しつつ、オリンピアンの育成や日本一を目指す という生き方も良いと思いまして、地元に帰ることを決めました。それから「地元への恩返し」というマインドになりました。

岩手町は、SDGs未来都市として認定されており、町としても全面的に押し出して、持続可能なまちづくりをおこなっていきたいと言っています。ホッケーは小学校の授業にも入っていたりと、まち全体として「ホッケーのまち岩手町」としてホッケーのPRに勤しんでいます。

私自身が関わる活動としては、今、中学校三年生の担任をしています。「総合的な学習の時間」があり、町の魅力発信を目的にSDGsを絡めて生徒たちと町のポスター制作を春から進めています。行政サイドのニーズを聞いて、ホッケーや宿泊施設、観光、畜産業などを発信するということを生徒たちと取り組んでいます。

紳士のスポーツというものの、激しいスポーツ

ホッケーの魅力の1つは、スピード感のあるゲーム展開です。
スティックでボールを打つ分、圧倒的に(ゴール型のスポーツの)中ではハイスピードなゲーム展開です。
また、イギリス発祥の紳士のスポーツというものの、想像以上にコンタクトがある激しいスポーツです。それらを複合して考えた時に、ホッケーはエキサイティングな競技で面白いと感じています。

ボールは硬化プラスティックで作られていて、野球の硬式の球よりも硬くて重いです。
(恐怖心は今でもあり、怖いです。)(ボールにもスティックにも)当たりたくはないですし、選手時代は、DFとして「体を張れ」と言われていましたが、痛いのはイヤでしたね。

ただ、スティックを持ってプレーをする関係で、スティックを振り回します。
その先にヘッドがあるのですが、体の外側1mくらいをヘッドが回っていくので、シュートのブロックに行く時に相手の体に密着すればするほど、そのスティックの軌道に入らないんです。それを恐れて逃げてしまうと軌道に入る。
つまり、「逃げたプレーヤー」がスティックに当たりやすいのです。
逃げたプレーヤーが当たるという論理的な部分がありますので、恐怖心を超えて相手プレーヤーに近づけば近づくほど安全にも繋がります。
そんな精神性と論理性が相まっていることもホッケーの魅力の1つかもしれませんね。

今、この時代に必要な「非認知能力」が育まれる

そんなホッケーを通して育まれる力。それは「心・技・体」だと思います。
ホッケーは1人ではなく11人で行うチームスポーツです。
心を通わせて同じ目標に向かって一丸となって取り組まなければ、戦術理解やゲームプランの遂行も出来ない。そのためにも、心がまず大事だと思います。
その次に技術(スキル)の部分、体力・筋力の部分も重要です。そのため、総合的に心技体の3つが育まれるスポーツだと思います。

選手として求められてくる力は「非認知能力」「予測する・見通しを持つ力」だと感じます。ホッケーには、規則性が少ないです。いつ何時どんなシチュエーションになるかホッケーの場合はわからないんです。パターン化がなかなか出来ない。
次にどんなことが起こり得るか・起こった状況へのリアクションを事前に準備して予知する非認知能力が勝敗の鍵を握る、とても重要な要素です。

その力は、社会の中でもとても役立っています。飲み会の時の先輩への気遣い・相手へのリスペクト・相手が望んでいることを想像することなどが挙げられます。「非認知能力」「予測する力」「相手がどんなことを考えているかと想像する力」は間違いなく、ホッケーから養われてきた力です。

この力は、これからの予測困難・予測不能な激動の時代を生きる子どもたちや私たちにとって、スポーツに限らず、社会の中で武器になる力は認知能力ではなく、定性的な力・非認知能力が大切になってくると思っています。

ホッケーは、私にとって人生そのものです。
私の生活や人間関係・コネクション含め全てホッケーが中心にあります。
そんなホッケーを町の武器・財源として、ヒト・モノ・カネを動かし、これから、地域経済を回したいと考えています。

岩手町ホッケー場
所在地: 〒028-4304 岩手県岩手郡岩手町子抱第3地割2

岩手町 IWATE(MACHI)

まちの歴史

1955年(昭和30年)7月21日 - 沼宮内町・一方井村・川口村・御堂村が合併し、岩手郡岩手町が発足しました。
岩手町を南北に走るIGRいわて銀河鉄道御堂駅付近とこれに並行する国道4号を東西に通過する北緯40度線。この線上は、人間が健康で文化的な生活を営む上で最も適しているといわれています。北京、アンカラ、リスボン、マドリード、フィラデルフィア、デンバーなど、世界の大都市が位置し、それぞれ豊かな文化の花を咲かせています。

まちとホッケー 〜ホッケー競技の始まり〜

1970年(昭和45年)の岩手国体でホッケー競技の会場となったことを契機に、岩手町ではホッケーを町技として普及させ、今では小学生からお年寄りまで幅広い年齢層の町民が親しんでいます。
沼宮内高等学校をはじめ、小中学校や社会人クラブチームも全国大会で優勝するなど、数々の輝かしい戦績を挙げ、五輪選手をはじめ全日本選手を多数輩出しています。
1993年(平成5年)には、県内初の人工芝競技場が完成。ホッケーを中心に各種スポーツ交流が盛んに行われ、人々に感動と興奮を与えています。​​
(参照:岩手町webサイト「岩手町の紹介 ホッケーのまち 」より抜粋)

特産品/名物

「石神の丘」(いしがみのおか)
石神の丘(石神山)には「道の駅石神の丘」と「石神の丘美術館」があります。道の駅ではとれたての新鮮野菜をはじめとした豊かな食が提供されています。〈花とアートの森〉として2021年にグランドリニューアルオープンした石神の丘美術館は、2023年に開館30周年を迎えます。彫刻作品だけでなく四季を通じて草花を楽しめる空間づくりに取り組み、アートや自然との出会いの場として多くの方から親しまれています。

提供:石神の丘美術館

「いわて春みどり」
いわて春みどりは岩手県岩手郡岩手町のブランドキャベツです。葉肉が柔らかく、巻きが緩やかなのが特徴で、初夏から夏にかけて収穫されます。
甘く、サラダに適しており、ざく切りでそのまま食べて頂くと、より甘みを感じて頂けるでしょう。


アクセス(品川→岩手町)

電車(新幹線)の場合:約2時間53分

品川駅(JR)

東京駅(東北・北海道新幹線)(約6分)

いわて沼宮内駅(約2時間24分)

徒歩


地図


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?