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ホッケータウン インタビュー 小矢部RED OX 監督 沼田 秀樹 氏(富山県 小矢部市)

怒られる時代、試合の中で褒められた

私は小学校6年生の時に、ホッケーに出逢いました。

ホッケーに携わる前は野球をしていました。

1962年に旧西礪波郡石動町と、津沢地区を中心とする同郡砺中町とが合併して小矢部市が出来ました。当時学校の統合があって、そのときに学童ホッケー大会という小矢部市の学校対抗の大会が開催されました。私は、そのタイミングでホッケーをやることになったんです。クラスみんなでホッケーを体験して、選抜チームに選ばれ大会に出場しました。

それまでは、ホッケーをみたこともやったことがなかったので、持ち方、ドリブルの方法など出来ない動きばかりでした。

はじめてヒットを打った時の感覚は今でも覚えています。
そしてもう1つ。試合に出た時に、相手にフェイントをかけて左抜きをして相手のスティックを交わした時の感覚。これも覚えています。
相手が取りに来た時に、ポンポンとそれをすり抜けられたんです。
ただ、抜き去った後のプレーは全く覚えていません 笑

その時に、先生に褒められたんです。
当時、基本的には怒られてばかりで褒める指導ではなかった時代でしたから、今でも強く記憶に残っています。

中学校時代はメンバーに恵まれました。チームメンバーのレベルが非常に高かったです。
全国中学校選手権で、先輩の代、私の代、後輩の代 3連覇しました。(S58、S59、S60)
1つ上の先輩も、1つ下の後輩も強かったです。

ただ、練習は厳しかったです。” 水を飲んだらダメ ”という時代でした。グラウンドも土でした。

自ら考える力、判断する力

当時、私の感覚としては「やらされる」時代でした。今とは、環境だけでなく考え方も指導方法も違がいました。
今は、道具にしても環境にしても、情報にしても、すべて恵まれていると思います。
だからこそ、“自ら考える力・判断する力”が今まで以上に必要ですし育まれると考えています。

ホッケーは、1本のスティックを扱い、小さな子どもから80代の方まで幅広い年代層で楽しむことができるスポーツです。試合ではスピード感や展開性が魅力です。体力や判断力、創造力が育まれるチームスポーツだと思います。

1人うまい選手がいても、それだけでは試合には勝てないんです。ひとりひとりが瞬時に考え、そしてチームでどうまとまるか。
最終的に、グラウンドでプレーを選択するのは監督ではなく選手たちです。戦略を含めてみんなで考えていって、自分たちで意思決定できることが大切だと思います。

そう考えるようになったのは私が日本代表選手時代、日本代表チームのコーチとしてオーストラリアからマイケルクレークさんがいらしていた時です。

当時ぼくらは全くの無知でしたが、マイケルさんに「考えること」「判断すること」を教えていただきました。

もう1つは、私自身が監督(という立場)になったということが大きいです。
「自分で成長する」ことから、「選手を成長させる」という変化ですね。

歴代の方々がつなげてきた小矢部市のホッケー

私が監督をしている小矢部RED OXがある小矢部市は、山と田んぼに囲まれた長閑な田舎で、水、お米、お酒、空気までもが美味しい恵まれた環境です。

そんな小矢部市のホッケーは、昭和33年に国体を誘致したのがきっかけで始まりました。

歴代の方々が学童ホッケーやスポーツ少年団などいろんなアイデアを出してくださり、つなげてきてくれました。その財産が今こうやって活きているとおもっています。

今年でいえば、小矢部ホッケー場の名称が『小矢部ホッケーフィールドby三井アウトレットパーク』 と命名権にて名称変更し、企業連携をおこなうことで更なるホッケー普及が広がりつつあります。
企業との連携・協力は、今後のホッケーの発展の可能性を感じています。
これからも、地域や企業と積極的に連携していきたいと考えています。
そして、子どもたちがホッケーを通じて『感動する機会』を増やしたいです。

そのために、夢のある日本代表選手を育てることはとても重要だとおもっています。
子どもたちの憧れの的になるのは、やはり日本トップの選手たちだからです。

今年東京オリンピックに出場しキャプテンを務めた山下(学)選手は、現在、小矢部RED OXの選手として活躍してくれています。そして地域の普及・発展活動に積極的に取り組んでおり、小矢部の子どもたちにとってまさに憧れの選手の1人となっています。

「やっぱり小矢部はホッケーでしょう」

私は生まれも育ちも小矢部です。大学は奈良県の天理大学に行きましたが、卒業してからまた小矢部に戻ってきました。

30歳まで私は小矢部にある実業団に所属していました。しかし2000年国体(富山県)が終わり、男女ともに実業団が休部になりました。
そこで、残った選手や関係者で相談し 2001年 小矢部RED OXというクラブチームをつくりました。
最初はみんなやる気もあり、競技力もあり活気がありました。
しかし途中から、選手の管理・運営が難しくなってきました。次第に試合にも勝てず、資金繰りも難しくなりました。その時はクラブチーム運営は辛かったです。

今私は、NPO法人おやべスポーツクラブという総合型クラブに勤めています。
同クラブとコラボレーションしたことでスポーツの幅や考え方が広がるきっかけになりました。ホッケーだけでない世界のスポーツに触れたり、多世代と触れ合って、いろんな気づきがありました。今の小矢部RED OXがあるのも、そのおかげだとおもいます。

チームメンバーとコミュニケーションをとったり、ホッケーの先輩方に相談したり、ホッケーではないスポーツに携わっている人たちと対話したりすることにより、ホッケーの魅力を再確認することが出来ました。そして「やっぱり小矢部はホッケーでしょう。」という原点に戻り、いろんなアイデアが生まれて、現在に至っています。

現在、ホッケー運営はホッケー関係だけでなく、いろんな方に関わってもらっています。
実際には見えない裏方の部分のサポートです。そんなバックアップがあることで選手が地域のために勝利に向けて頑張り、それを子どもたちに見てもらう。
先ほどもお話した通り、日本トップ選手も地域に近い存在として活動してくれています。
「選手や子どもたちのためにスポーツに一丸となっていること。」
それが小矢部の良さですね。

ホッケーは、人生をゆたかにするパートナー

 いつか、チームでヨーロッパ遠征、オーストラリア遠征行ってみたいです。
競合国に行って、試合をしたい。ヨーロッパから小矢部にきてもらって、英会話をしたり、国際交流をしたいですね。

 JHAさんには、日本代表がオリンピック、W杯常連で活躍してくれるような体制づくりをして欲しいですね。
 2020東京にむけて、全力で頑張ってくれていたこと、世界と対等に戦えることは実感できましたし感動しました。だからこそやはり、これからだとおもっています。
 東京までの、協会が築いた財産や評価を共有してもらえたら嬉しいです。
選手から話をきいたりはしますが、協会さんとの対話はほとんどないんです。

 小矢部の町には、昨年度人工芝も貼り替えていただきました。
ホッケーをこの町でしかできない文化だとしたら、小学校・中学校・高等学校も含めて「小矢部の地にきたら、1度はスティックを触るぞ。」という雰囲気になる取り組みができたら、協会としても地域としても良いと考えています。

私の人生、ほぼホッケーです。それはこれからも変わりません。スポーツは人生をゆたかにするものです。良い時もそうでないときも。私にとってホッケーは人生を楽しく・深く愉しむパートナーです。

2030年は、すぐ来ます。引退した後の人たち(元・選手たち)やホッケー協会や各ホッケータウンが培ってきた経験やノウハウが共有されるコミュニティづくりが必要だと感じています。そういった仕組みや環境が出来ることで、夢を持ち、世界を目指して頑張る子どもたちが育つはずです。
私自身も、私のできる役割の中で、ぜひ応援し続けたいとおもいます。


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