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マテリアルnotプロダクト

今までどんなものをどれだけ捨ててきただろう。
捨てたものはどこにいったのだろう。

地球船宇宙号という考え方がある。ぼくたちが地球という大きな船の上に乗っていて、ものを作り捨てるということの限界があることを直感的に教えてくれる。バックミンスター・フラーというアメリカの建築家が提唱した資源の有限性を伝える、この世界観。ものを買うこと、作ること、捨てること。ぼくは地球船宇宙号のイメージの中に生きている。

母子家庭でお金にゆとりのない環境で育った故に、もったいない性は常にあって、元々ものを捨てることはもったいないという感覚が養われていたように思う。建築の大学に入って、模型を作るようになったのだが、模型材料のいらなくなった切れ端や余りをよくかき集めていた。また何かに使えるかもしれないと思って。正直買った方が早いし、綺麗だし、使う場面もそうそうない。置き場の確保や管理するほうが大変だった。でも時折、あの時のあれが使えるかもしれないとひらめく時があって、うまく行った時は最高に気持ちいい。模型を作る面白さの1つに、どんな材料をどう使うかを思考し試すことがあると思う。模型材料とされていないものが模型に使えてピッタリだった時、新しい作り方を生み出せたというオリジナリティと達成感がある。模型に限らず、建築に限らず、ものを作る楽しさの要素の1つだ。プロダクトをマテリアルとして見れた時、創造の領域が著しく広がる。

材料を加工して、接着剤で貼り付けて、模型は完成する。でもその後が悲しい。作品の発表会が終わったら、少しの間展示されてゴミ箱の中に入りやすいよう、跡形もなく崩される。そこにある感情は、せっかく作ったものが壊されるという喪失感が大抵だ。資源が、、とは思わないことに違和感を覚える。模型だけの話ではなく、実際の建物でも、家具やプロダクトでも同じだ。いずれ役目を終える、諸行無常であることは理解しているが、どうも壊すこと、捨てることへの抵抗が少なすぎるように思う。人間の作るものはそう簡単には循環しない。マテリアルからプロダクトに仕上げれば仕上げるほど、マテリアル性が失われる。粘土のように元のマテリアルには戻らない。

ぼくが入っていた研究室のOBOG達の木材を使ったインスタレーションや家具がいくつかあった。テーブルの上に乗る小さな模型ではなくて、簡単には動いてはいけないような大きなものであると、失礼ながら邪魔なのだ。当時はさておき、それが時を経て僕たちの前では場所をとっている大きな塊でしかないのだ。大きいから動かすのも捨てるのも大変なのだ。だから、ものを作る時、マテリアルのままにしておくべきか、プロダクトを追求するか、葛藤が生まれる。完成品になると、用途が狭まり使用方法や想像力が限定される。未完成は、未分化で次の可能性を大いに秘めている一方、手を加えなければ役に立たない。

だからものを作る時・買う時はシンプルなものを心がけている。プロダクトとして終わっても、その後マテリアルとして生まれ変わるのだ。たぶん全てのものはプロダクトであってマテリアルで、考え方次第で別のものに生まれ変わる。建築屋として、ものを作る者として、生活を送る消費者として、マテリアル思考でいこうと思う。プロダクトをマテリアルに見れた時、こどもの頭の中のように自由に楽しくなるはずだ。

プロダクトはゴミではなく、マテリアルになるべきだ。
マテリアル思考を養えば、ゴミは減るし、それにきっと、部屋も建築も街も面白くなると信じている。

#SDGへの向き合い方


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