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褒められない世界の変え方

子供じみていると思うかもしれないが、大人になると褒められない。下手をすると、子供でも褒められない。そういう世の中だなと、ふと思った。


この「褒められない」は相手から自分にでもあるし、自分から相手にでもある。

当たり前が多くなっていく世界では、普通のことをしていては褒められない。勉強をしても、仕事をしても、褒められない。当たり前すぎて、褒める要素がない、見当たらない。逆に当たり前のことを褒められても、嬉しくない、お世辞なんじゃないかと断定気味で素直に受け取れず、嬉しくない。褒められない世界は両側の思考から作られていく。


別に褒められるために生きているわけじゃない。たぶんみんなそうだ。体裁とか隠したいとかそういうんじゃない。でもやっぱり褒められると嬉しいのは事実で、だから承認欲求と称されても間違いじゃない。

もしも、自分のしていることやしたいことがこれから先、誰からも褒められることは決してなく、一生見向きもされないことだったとしても、自分はそれをやり続けられるだろうか。

難しいそ。

承認欲求ではないと言い切るにはそれくらいの覚悟が必要だ。というか承認欲求=悪いことではない。気持ちは分かるが、別にその言葉から逃げなくてもいい。自分の行動の正しさを証明するものための、自分を肯定するための、自信のなさを埋めるための承認欲求。その承認で前に進めるのなら、それでいい。さきのもしもは耐え難い。

まあ実際は、そんなとやかく考える以前に、やっぱり褒められたら嬉しいというただそれだけの褒められ欲求だ。

そしてその褒めが不足している。



過去が蓄積していく世界では、大抵の物事は既にあって初めてじゃない。初めてどころかごまんとある。一番はそうそうとれない。同じような、あるいはそれ以上のものがたくさん。褒められないのはそうした過去の全部と対抗しているからだ。過去の全部と比較をしているからだ。

赤ん坊がハイハイできるようになったり、立ち上がれるようになったりしたら、きっと親は心から喜んでくれたはずだ。そこに比較なんてない。

でも大人になるにつれて、世界は大きくなっていって、自分の小ささを目の当たりすると、褒めることができなくなる。そして同様に周りのものに対しても小さく感じて、褒めることができなくなる。

そんな時は世界を小さくした方がいい。等身大の世界に二三歩分足すぐらいの大きさで留めておく。遠くを見据えることは大事だが、いつまでも望遠鏡を覗いてばかりでは一歩の大きさに喜べなくなる。ひどくなると幽体離脱した意識が遠くの世界で身を置いてしまって、現実の自分が嫌になってしまう。今いる自分の世界に戻した方がいい。

あの頃、ささいなことで親が真心で褒めてくれたように、まずは自分で自分の小さく大きな成長をマゴコロで褒めるところから始めてみよう。あの頃、自転車に乗れるようになって純粋に嬉しかった時のように、がんばって、できるようになって、無邪気に喜べばいい。褒めを自給自足ができるようになってようやく誰かに褒めをプレゼントできるようになれるのかもしれない。褒められない世界が少し変わるかもしれない。




P.S. ちょうどこんな動画を見つけた。


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