ねえ、お母さん校長先生はえらいの?おとなって子どもよりえらいの?
娘は5歳までに大変な悲しい思いをしてきた。
生きている限りいつか死ぬ事実よりも生きる希望をたくさん蓄えたい。そんな彼女の思いをここに記します。できるだけたくさんの大人たちに覚えておいて欲しい。命は生きるために生まれています。死ぬのは生きたことの結果でしかない。
ねえ、お母さん、大人は偉いの?
夕方に突然そう聞いてきた。
大人だから偉いとかはないけど、長い年月生きてる分だけ尊敬できる人も多いかなとは思うけど、何かあった?と聞いた。
学校で校長先生に怒られたという。「大人にそんなこと言ってはいけないよ」と言われたと。大人に言っていけない言葉って大人が偉いからなのかなと思って。という
普段怒られるようなことをしない娘がなぜ怒られたんだろう。
「校長先生に言った言葉は何だったか忘れちゃったんだけど・・・」
覚えていることは明白だった。嘘ついたってすぐわかる。
面倒だなと思いつつ、よく話を聞いてみた。
校長先生に「弟が一年生になる時にも先生は学校にいるかな」と聞いたらしい。
うんうん、最近校長先生に信頼を寄せて尊敬できる人だなと思って、弟が小学校に入るまでいてくれたら良いなと思ったんだね。
そこで、校長先生の答えは「わかんないなー死んじゃうかもしれないし」だったそう。
娘は「そんなことないよ生きているよ」と言った。
ここでまだ校長は食い下がったそうで「でも、車にひかれて死んでしまうかもしれないし」と言ったと。
娘はそれでも言った「車に轢かれて死んだりしないよ」
これでもまだ校長は続ける「でも、交差点で信号待ちをしていたら車が突っ込んできて死んでしまうかもしれない」
ここで娘が「気を付けろよ」と言ったら叱られたらしい。
それは、叱るよね。と私は言った。でも、たまりかねて校長を黙らせるためにこの話を終わらせるためにそんな言い方したんだなと思ったから、それをそのまま言ったら
「どうしてお母さんわかったの?」と聞いてきた。
あなたの人生の1ページが始まる前からずっと一緒だから
いろいろなことがわかるんだよね、不思議でしょう。
校長先生に信頼を寄せて校長先生すてきな人だなと思って、弟が学校に入るまでここにいて欲しいと思ったからそう言ったんだよね。
答えて欲しかった言葉は、そうだね弟が入学するまでここに入れたら良いなだったんじゃないかな。
でも、校長先生はその言葉を言えるほどには元気がなかったのかもしれない。
自信がないのかもしれない。
不登校の娘は2学期以降、校長室登校をしているので日中のほとんどを校長室で過ごす。専科の授業以外は校長室にいるようです。
子どもに傷つけられることを恐れた新しい担任は力でねじ込むタイプのようで娘はそんな大人が好きにはなれず。去年の担任とならうまくやれていたヤンチャな男子に怒鳴る姿が嫌だと言って教室には行かなくなってしまった。休み時間のみ教室で友達と遊んだり、一緒に登下校している。
命は生きるために生まれている
何のために生まれてきたのなんて聞かれることがあるけれど、それはもちろん生きるために生まれてきた。それ以外の答えはない。目に見えない小さな虫も、嫌われるゴキブリもみなそこだけは平等に生きるために生まれている。
カビでさえ、生きるために生まれているのだ。
考えることがない生き物の方がわかりやすいような気がする。
畑に行って土を耕していると無数の命がそこに存在していて全て生きている。
土の中で眠るバッタのサナギも生きるためにそこに存在している。
人間だけ特別なんてことはなくて、ヒトも生きるために生まれている。
望まれたかどうかはどうでも良いんだと思う。
どんなに望んでも子どもに恵まれない人もいるのだから、産んだ人が望んだから生まれてきたというよりは、生きるために生まれてきたんだと思う。
そして、全ての命は必ず終わりがある。始まりがあれば終わりがあるものです。
生きた結果として死ぬのであって、死ぬというゴールに向かって生きているわけではないんだよ。そこんとこ覚えておいてって説教しに行きたくなった。我慢したけど。
子どもの疑問に真っ直ぐ答えられる強さとしなやかさを持ちたい
大切な人との時間は楽しくて仕方がない。この素敵な人とできるだけたくさんの時間を共有したい。あ、ずっと一緒にいたいかも。この素敵な時間がずっと続けば良いのにという純粋な気持ちを持たずに成長してきたんだろうか。
大切なひとに出会えてこなかったんだろうか。
夫の場合は、大切なひとに出会えてこなかったパターンだと思うけどね。
なぜ、生きることを胸張って言えないんだろう。
娘の父、私の夫もそうなんだけれどね。
娘に人はいつか死ぬと答えてしまい、余計に不安にさせる。
逆だよ逆!ってものすごい思うんだけど、何の疑問もなく死ぬこと=命の終わりをゴールに見据えて考えている人がいることにびっくりした。
ねぇ、もったいなくない?
人も虫も命に例外はない。生きるために生まれて、結果死ぬだけ。
命の終わりは誰にもわからないんだから、与えられている時間を最大限に生きていきたい。
大切な人、大好きな人たちとの楽しい時間を一分一秒でも長くいたい。
そういう人とのつながり、命と命のつながりや命が未来につないでいくものを教えて欲しい。
娘が知りたい答えはそういうこと。
そしてそういうことを教えてくれる大人の近くにいたい。
無意識に子どもをからかってしまう罪の重さ
学校の校長先生ともあろうお方が、児童の問いかけに対して死んじゃう視点で回答し続けたのはどういう心持ちだったんだろうかと考えてしまった。
校長先生ご自身が生きることに疲れていらっしゃるのかしら。とも思ったけれど、もっとシンプルに考えて良いんだと思ったんだ。
物事の本質はそんな難しいことではなくてきっとすごくシンプルにできている。
今回の会話では児童を一人の人間として尊重せず適当に回答した結果として引き出された言葉が「気を付けろよ」だったんだと思う。
「気を付けろよ」これは大人に対してでなくても、自分より年がした子に対しても言って良い言葉ではないことは確認した。
娘の周りにいる人の顔を思い出させながら、この人にはいう?って一人一人言うか聞いたら結果、全員に「言わない」って言ってた。
ではどうして、校長先生に「気を付けろよ」って言っちゃったんだろうね。
①死ぬ話しかしないから黙らせたかった
②真面目に話してくれないから腹が立った
そんなところなんだろうと思う。
最後に校長先生に言いたかったけど、言ってないこと
本当は「では、来年死ぬと思ってて子どもたちが勉強すると思いますか?!」って言いたかった。死ぬと思って勉強する?って
私は実母を看取り、娘は大切な祖母を看取った。あと半年しか生きないと思ったら、どういう生き方をするのか見てきたんだわ。
死ぬと思って生きていたら、人生を豊かにするのは非常に難しくなりますよということ。命が永遠に続くと勘違いしていたら無駄な過ごし方をしてしまうのではという懸念があり死ぬことにフォーカスさせがちな教育ならそれは間違いだと思うよ。
生きるために生まれてきた、その最後の結果が死ぬことなんだよ。
いつか終わりがある。だからこそ、死ぬ寸前に自分の人生が終わると悟った瞬間にああ楽しい人生だった。生きてきてよかった。生まれてよかったと思えるような生き方をできるように
自分の好きなことを知る。
自分の好きな人のそばにいる。
自分を好きだと言ってくれる人のそばにいる。
そのために、知識はできるだけあったほうがいいね、うん勉強が必要
健康に生きていくためには体の動かし方を学ぶのも必要
健康な体を使い、知識を使って生きていくためには智慧が必要だ。
そのために学校という社会にて、仲間に出会えたら学びは深まるだろう。
小さなことを積み重ねていったら、きっと最後に後悔のない生き方ができるのかもしれない。
まだ死んだことがないからわからないけれど、母を見ていてそう思った。
死ぬってわかったら、死にたくないんだよ。もっと生きていたいんだよ。
だから、死ぬ話、やめてください。
教育者よ人格者であれ、なんて思わないよ。
でも、死ぬ話よりどう生きるかを説いて欲しい。
切に願います。
子どもたちは大きな、いや無限大の未来を生きてるんですよ。
箱根ケーブルカーにインスパイアされて作成されたケーブルカー
レールの中心にケーブルが描かれている。
車体は折り紙で作りましたね、3両編成でございます。
いつ頃まで廊下に設置されているのでしょうか。
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