見出し画像

美しき紅葉の京都をめぐる      其の四  二条城 北野天満宮

二条城(12月2日 午後撮影) 

二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。
将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。
 3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。壮麗な城に、天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。
 1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。
 二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構をみることができます。1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産に登録された二条城は、徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます。

世界遺産 元離宮 二条城HPより

二条城 世界遺産・元離宮二条城 (kyoto.lg.jp)
二条城の概要 | 二条城 世界遺産・元離宮二条城 (kyoto.lg.jp)
 ホームページが充実しており、ガイドマップには写真撮影お勧めポイントが載っており撮影スポットを把握でき良い写真が撮れたと思います。以下の写真はお勧めポイントの写真です。
ガイドマップ | 二条城 世界遺産・元離宮二条城 (kyoto.lg.jp) 

 東南隅櫓[重要文化財]


唐門[重要文化財] 

 

 二の丸御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構です。江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定されました。
 内部は、日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画と、多彩な欄間彫刻や飾金具によって装飾されており、将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な空間となっています。

世界遺産 元離宮 二条城HPより

 特に印象に残ったのが、二の丸御殿です。後水尾天皇の行幸のために大改築された際、幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁狩野探幽が一門の総力を挙げて制作した障壁画の数々と多彩な欄間彫刻や飾金具に装飾された書院造の御殿に魅了されました。文化財の保護のため御殿内は撮影禁止になっていますがホームページで御覧になれます。
 国宝・二の丸御殿 | 二条城 世界遺産・元離宮二条城 (kyoto.lg.jp)

二の丸御殿[国宝]

二の丸庭園[重要文化財] 
 
本丸御殿 本丸庭園[重要文化財] 

天守閣跡よりの眺め


 清流園

  

北野天満宮(12月1日午後撮影) 

 午前中に嵐山を散策した後、嵐山駅から嵐電に乗り、途中、帷子ノ辻(かたびらのつじ)で北野線に乗り替え終点の北野白梅町から徒歩5分ほどで
北野天満宮に着きました。北野線の途中には、世界遺産の御室仁和寺、龍安寺があるので、時間に余裕があればあわせて訪れるのも良いと思います。

 北野天満宮は、菅原道真公(菅公)を御祭神としておまつりする全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社です。古来「北野の天神さま」と親しまれ、入試合格・学業成就・文化芸能・災難厄除祈願のお社として幅広く信仰されています。   

北野天満宮HPより

境内のご案内 - 北野天満宮 (kitanotenmangu.or.jp)
「もみじ」と「梅」の名所として知られています。

三光門[重要文化財] 


御本殿[国宝]  


 

 

もみじ苑から眺める御本殿と紅葉 

このたびはぬさもとりあへず手向山
もみぢのにしき神のまにまに
             菅家
【歌のこころ】
急に思い立たれた御幸ゆえ、奈良坂の神に捧げる幣(ぬさ)の用意もととのわず供奉してきたが、眼前の手向山のもみぢの多様な彩はどうだろう。これこそは人為を超えた神韻の美。神のみ心のままに織りなされた幣にまさる幣ではないか。

【語注】
「たび」   「度」と「旅」の掛詞
「ぬさ」    旅の安全を神に祈るための幣帛(へいはく)
「とりあえず」 きちんと用意できなかった。
「手向山」   山城国(京都府)から大和国(奈良県)へ出る奈良山の峠
        神仏に供え物をする意の「手向け」を掛ける。
【解説】
 歌では「このたびは」という初句の言葉に「旅」が重なり、「手向山」の名称にも手向けの心が重なる。御幸への急な供奉のため幣も持たずに来たことを敢えて理由として、眼前に広がる紅葉の美を幣に見立て、神の思し召しのままに御受納くださいと詠んでいる。漢詩文に長じていた菅家の人、菅原道真らしい技巧の絢爛さがある。
 道真の人物を高く評価して引き立て、藤原氏の地位に比肩する右大臣の位まで昇格させたのは宇多院である。それは昌泰二年(899)二月、この吉野御幸の翌年であった。そして、それは左大臣時平の危機感を煽ることともなり、道真の失脚はすみやかだった。(中略)
 年若い醍醐天皇は時平の言に動かされたのか、昌泰四年(901)一月、俄かに道真の右大臣を解任し、太宰権帥に左遷した。(中略)家族と別れて家を出る時、軒端の梅の盛りをみて「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠み残したことはあまりにも有名である。
 そして道真は延喜三年(903)、筑紫でこの世を去った。しかし菅公は死後祟り神の雷神、つまり天神として猛威を振るい、宮中にも落雷して殿上をおびやかし、延喜九年(909)に時平が三十九歳の若さで亡くなると、次々に一族の未来をになう女御・春宮・長男・次男などが亡くなる不幸がつづき、人々は菅公の祟りを畏れるようになった。そしてついに延長元年(923)、朝廷も道真を元の位に復し、天神として北野神社に祀ることになった。

馬場あき子の「百人一首」NHK出版2016年

約350本のもみじは錦秋と呼ぶにふさわしい美しさでした。 


幣のイメージで撮ってみました。 


 

この記事が参加している募集

#旅のフォトアルバム

38,986件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?