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ナショナリズムの祭典とミャンマー

国を背負って戦っている。

時速200kmで飛び交うシャトルを、高い仕切りの影から目で追ったあのとき、たしかにそう感じた。ミャンマー連邦共和国、としてこの東京五輪に出場している彼女は、弱かった。試合後コーチは、会場の端で待つ私を目に止め、出国前の隔離が長くてスタミナがなくなった、と微笑をとどめ言った。

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オリンピックとは、ナショナリズムの祭典だという。自分と国籍が同じだというアスリートたちの華麗な活躍を目に焼き付け、感動し、涙する。自分と同じパスポートを持つこちらの赤の他人たちの勝ちを喜び、あちらのベンチの赤の他人たちを敵と思う。国家と国旗と国歌にあふれた競技場で戦うアスリートたちは、こうした虚構に熱狂し、感じ入る大勢の人々のもとにエンターテイメントとして、あるいは大会グッズとして、届けられ消費される。

スポーツナショナリズムというコンテンツが、消費されたあと。ピクトグラムが動き、ウガンダの選手が見つかり、ソフトボールが飛び交い、熱中症が続出し、バトンが繋がらず、ボランティアの善意が搾取された、そのあと。そこに残るものはなんだろう。大会のレガシーとは、希望と、復興であったか。はたまた、女性を嫌う会議と、メダルを噛む市長であったか。都内2万人の自宅療養者であったか。

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ノーサイド、フェアプレー、スポーツマンシップ。スポーツに政治はいらないという主張のもと、オリンピックはコロナ禍が浮き彫りにし、深刻化させた国家格差を、いとも簡単に見逃す。国民の半分がワクチンを打っている国、アスリート以外ほとんど誰も打てていない国。16階建てビルを丸々一棟かし切りで入居する選手団、わずか2部屋におさまる選手団。国旗で飾られた自転車を大量に持ち込む選手、使える自転車を探し灼熱の村内を歩き回る選手。

私が縁あって担当したミャンマー選手団は、すべて後者だった。バドミントンの選手と、彼女の父親でもあるそのコーチが一部屋を使い、そして射撃の選手がもう一部屋を使った。ミャンマーオリンピック委員会のスタッフと他の選手・コーチは、全員コロナ陽性で出国できなかったそうだ。ここには3人のスポーツマンしかいない。自然、私がすべての事務を取り仕切ることになった。バドミントンからのミャンマー史上初のオリンピアンである彼女は、叔父さんもコロナで亡くなったと、静かに教えてくれた。

彼女らは、相当出国前にコロナ関係や政治的な紆余曲折があったのだろう、開会式前日の夕方に到着し、開会式に出なかった。到着した翌日朝から、疲労を押して公式練習に向かい、2日後にはもう予選に出場した。開会式に出なかったのは、疲労と試合準備のためだっただろうか。それとも、政治的理由だっただろうか。私には知るよしもないが、警視庁は後者を警戒して寄ってきた。また、彼女らは周りに入居する国々に倣い、布製の大きな国旗を持参していた。バルコニーにくくりつけるための紐がほしいというので、はなはだ疑問に思いながら渡しておく。その旗は、あなたのものですか。それとも、あなたの政府のものですか。

選手村では、各国のオリンピック委員会が自分の国と五輪をあしらったピンバッジを大量持参し、選手たちが互いにトレーディングカードのように交換しあってコレクションをつくる。各選手のセキュリティパスがかかったストラップは、次第に布が見えないほどバッジで埋めつくされ、ジャラジャラと胸元で揺れながら選手村をにぎわせる。そんなナショナリストな楽しみにも、ミャンマーは関われなかった。陽性になったスタッフが持ってくるはずだったのか、そもそも作れなかったのか、交換すべき自国のバッジを持っていないのだ。政治問題で、ながらく本当に来れるか分からなかったからさ、と私に言う3つ歳上のバドミントンの彼女は、少し寂しそうだった。こうして一国が、たしかに外交の場から排除されていく。

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<あまりに不憫だったので、「Stand with」にかなり包括的な意味を込めてMyanmarのバッジを私から贈った。写真は私のバッグ。彼女のストラップの写真が彼女のインスタグラムにある>

射撃の選手は、競技柄から分かる通り、軍関係者だった。私がコンタクトを持った警視庁の調べによると、海軍だという。一方、バドミントンの彼女は公式SNSをみれば一目瞭然の民主派だった。それでも、彼女のインスタグラムの出場決定のポストは、国内から声援とともに、軍政府に従う裏切り者との誹謗中傷によって応えられた。その前の投稿には、スーチーさんの写真がアップされている。先のワールドカップ予選で三本指をたて亡命したミャンマーの男子サッカー代表選手の件を考えれば、警視庁のマークは想定内だった。

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また選手たちの訪日に、クーデター以後いまだに政治的中立を保つ駐日ミャンマー大使館は鋭く反応した。なんでも、セキュリティパスを発行してもらったから、大使だけ観戦に行きたいのだという。大会専用車を準備する暇もなく、外務省ナンバーの大使館車をバドミントン会場のセキュリティ外につけてもらい、そこから誘導するという私の案で落ち着き、VIP席から観戦してもらうことができた。私といえば、試合会場場内に入る権限は持っていなかったが、コーチとともにするっと入り、試合会場の端っこで障害物の影から観戦した。冒頭の景色である。

今も、私の私用スマホには警察官とミャンマー大使との番号が保存されている。思えば、国民、選手、軍政府、民主派、駐日大使館、警視庁、在日ミャンマー人といった様々なプレイヤーの中で、ギリギリの政治的平衡を保ちながらこの2週間は動いていた。これほど危うく、悲しく、ある意味で感動的なスポーツを、私は他に知らない。

試合時間はわずか40分。彼女は、世界ランキングが30位上の先進国ベルギーの選手に、ストレートで屈した。

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数日後、彼女らは大勢の私服警察の隠密な、しかし物々しいマークのなか、五輪公式グッズの土産を大量にスーツケースにおさめ、成田から出国していった。警視庁の心配はすべて杞憂におわり、日常が再開した。数週間後、バドミントンの彼女はパリ五輪を目指してトレーニングを再開したとインスタに書いていた。



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シフト最終日、暴風ながら目の前に広がる鮮やかな夕焼けと、夜に輝く5つの輪っかをまえに写真を撮る。一連の日々を筋道だって意味づけしようと巡りにめぐる頭の中に、なんども浮かびあがったのはあのベルギー戦の彼女だった。

あのとき、彼女はミャンマー政府を背負って戦っていたのではない。SNSでの叩かれようを見るに、ミャンマーという国家で苦しむすべての人の思いを背負って戦っていたのでもない。彼女は、そう、彼女は、国家によって彼女の背中に縛り付けられた数多の重りを背負って戦っていた。感染爆発、独裁、国際社会での偏見。国の名を冠することでついてくる全ての重荷に自分の夢を妨害されてなお、それを受け止め、バドミントン選手、としてこの東京五輪に出場している彼女は、強かった。私はそれを目に焼き付けていた。

人は一人でも国家より強い。

ナショナリズムは、国家を讃え高揚する庶民の思想ではない。国全体をまとめる統率者の思想でもない。ナショナリズムは、国家を信じない者、奪われた者、迫害された者にとっても、たしかに存在する。クーデターで国を奪われ、新政府に仲間を迫害され、コロナ格差に親族を殺された彼女は、選手村にしっかりミャンマーの国旗を飾り、大会の様子をしっかりインスタグラムで拡散して帰ったのだ。2週間にわたり、目を覆いたくなるほどの村の国家意識のもとで生活するアスリートたちは、あらゆる矛盾をはらんでいる。

大会後、選手と活気が失われた私の勤務先 — 国際交流の権化たるオリンピック選手村 — は、高くお高いマンションになる。皮肉にも、村のメインストリートに掲げられた206の国旗を運営に引き下ろさせたのは、閉村ではなく、台風だった。主権国家体制のレガシーは、いずれ環境破壊によって粉砕されるのだろうか。

私は、将来は日本社会のために自分を使うため、いま日本とアメリカを行き来しながら別離を生きている。でもこれは、日本政府と、日本国民のために働きたいことを意味しない。単純に、自分が一番大切に思っている人とコミュニティの数々が日本にあるということだ。目指すのは、境界が消失した、連続した世界社会の一地域としての日本の独自性。いまの日本をこれに近づけるために、多様化とコミュニティの持続とに同時に取り組むこと。なにより、大きすぎて小さすぎる国家という虚構を背負って立つのではなく、大切な身近な人々のためになるために自分がそこに立つこと。自分と、大切な人たちが、大きななにかよりもずっと強いことを知ること。


昨日、国民のシンボルとして民主化運動に従事する、バドミントンの彼女の姿をインスタに見とめた。花火が上がってパラリンピックが終わり、ナショナリズムの祭典が閉幕したとき、のこったもの。負の遺産にしかみえないそれを探しながら、世界に散らばった欠片を拾い集めている。

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<大会期間中、ボランティアなど関係者によるSNSへの重要エリアの写真投稿は禁止されていました。いま、パラリンピックまで終了した段階で、ここにまとめて記録しておきます。>

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