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入院日記17日目だから私もあなたが嫌いです。

今日担当します、Mですー。
病室に名札を持って現れた人をみて、
ええっなんで?と思う。
この人、苦手なんだよなー。
なんでまた?たしかもう4回目ではないか!

たくさんの方が交代してくれるが、
こんなに同じ人がくることはないのに。

この人だけはどうにも苦手意識が働いてしまう。
なぜだろう?と思う。

痛いのだ。
寒いのだ。
かぶるのだ。
マニュアル通りなのだ。

●痛い 
看護師Mさん:痛かったらおっしゃってくださいねー。
私:あ、ちょっと痛いかもです。
看護師Mさん:あれ?そうですか?でもまあ腫れてないからもれてはないですけどね。あ、針が、ちょっと抜けそうかな。おしこんどきますねー。(いたたたたた)

私:この痛みは大丈夫ですかね…
看護師Mさん:(見てない)大丈夫ですねー(ニコニコ)じゃまたきまーす。なんかあったらおっしゃってくださーい。(おっしゃいましたが!?)

●寒い
看護師Mさん:あとでシャワーなので点滴のところに水入らないようにビニールしてテープまいときますねー。
私:ありがとうございます(でもまだ2時間あるけど?これからご飯もたべるけど?)
他の中のスタッフさん:はあーい。〇〇さんごはんでーす。あれ?シャワー何時からでしたっけ?
私:○時からです。
他のスタッフさん:…ですよね…ん。早いんですね
私:…ですよね。(キツくて腕曲げづらいんだよね…。でも水はいらないほどにはキツくなさそうな感じも実は気になるなあ)

この後シャワーをしたら思っていた通りお湯が入り込んで点滴針周辺はしっかりと濡れてしまった。まあ針の入口のあたりはまたしっかり別のシールがあったから患部に水分が入り込むとは思えなかったけど、その周りをおさえ止めていた他のテープ類がしっかりと水分を含み、手首をシンシンと冷やした。
手首だけでなく体がゾクゾクと寒い。
このまま寝るのは不快だった。

でもMさんに言ってみるのはためらわれた。
水が入ってきてしまった彼女の処置を指摘して抗議するみたいになるのも嫌だったし、そこでまた彼女がおそらく、大丈夫ですよーと言うに決まっていると想像するのも嫌であった。

大丈夫ならいいではないか。
でもなんかモヤモヤするこの気持ちを考えてみたくなる。他の看護師さんならきっとまずこう言うだろう。
「ほんとだ!」
そのあと、これは冷たいですよねー。すぐ変えますねー。と言ってくれるのではないだろうか。

結局はどちらの看護師さんだって冷たいところを変えてくれるならいいではないか、と自分のこだわりというか心の狭さにウンザリするが、

そう、まさにそういう自分を嫌な奴に思わせるようなことをされるのが気になっているのかもしれないなあと感じた。


あの人に嫌われてるみたいだなあ。

私は日頃人間関係においてつまづくとき、
この人と合わないなという思う時は
きっとココがいつも出発点だ。
被害妄想をふくらまして、
いつしか攻撃心に変わってしまう。

最初に嫌ったのはあなたの方ですよ。
あなたが私を不快にしたのです。
だから私は怒って当然ですよね。 

あなたが私を怒らせている。
だから私もあなたが嫌いです。

こうやって書いてみると、
われながら怖い怖い…


このMさんの言動が最初に気になり出したのは
こんな場面だった。
Mさん:この点滴の針、もうしばらく使わないから抜いちゃいましょうかね。
私:あ、実はね私すごく針が差しにくい細い血管みたいでいつも苦戦していただくのでね、ここもようやく入ったし、他の候補もおそらく使い果たしてるみたいだし、ここは残しておくって、できませんかね。
Mさん:…そうですか。じゃあ残しておきます?それはできますけど。
私:なんか怖くてねーまた出来ないーとなるのが。もしできるなら…
Mさん:いいですよ、別に。でもたぶん次やるとしたら来週だからその時はもうこの針使えませんけどね。やり直すことにはなりますよ。でもまあつけときましょうか。
私:え?来週ですか。それにその時はもう使えないのか…。結局取っちゃうなら入れててもしかたないかー。(5日間くらい針入れっぱなしっていうのもどうなのか?それもなんだか気になるなあ)
Mさん:おそらく、次は来週ですねー。まあつけときますよ。じゃあ失礼しまーす(はや!)
私:…

この後Mさんが来てくれた時、やっぱり取っちゃいます!と告げる。はーい。と言ってテキパキととってくれた。

なんだかこのやりとりの時に、モヤってしまったのだ。
警戒心発令!発令!笑

またある日のこと
シャワーの順番が来たので行ってみると
シャワー室は使用中の張り紙がはられ、ドアが閉まっていたことがあった。
何度も見に行ってみたがそのまま。
その時ちょうど近くにMさんが通りかかった。
Mさん:〇〇さん(私のこと)シャワーの時間ですよね
私:そうなんですよ。でもまだ前の方が入ってるみたい。
Mさん:きっともうすぐ出られるんでもうちょっとお待ちください。
私はそうですよね、とニッコリうなずく。
それにしても遅い。自分の割り当て時間が少なくなるから気になり出してくる。
意を決してナースステーションに行き、今シャワー室にいる方に声をかけてもらえるよう、すぐ近くにいた看護師さんに聞いてみた。
すると少し離れたところにいたMさんがくるりとこちらに振り向き叫ぶ。
Mさん:〇〇さん(私のこと)の前には誰も入っていないはずです。そのまま開けてシャワーしてくださいー。
私:え?あ?そうですか。はあい。
私の前には誰も予定入っていなかったのか。
さっきMさんと会ったよね?えーっと私がわかってなくちゃいけなかったのはどこなんだろう?いやいや知らなくて当然でいいんだよねえ。
さっき言えばよかったですねー。とか〇〇さん(私のこと)の時間少し伸ばせるか確認しますねーとかない、ん、だな。あ、こうしちゃいられない!次の人来ちゃう前にあがらなくちゃ!

Mさんだって忙しい。
私意外の仕事だってあって、私がここまで言っちゃうのはちょっとおかしいかもと、少し反省。
でも入院生活長くなってなんだか細かいことをきにしだすようになったのかな…
今回はMさんを通して人間関係を考えてみたい。

考えてみると、ママ友達とか仕事先の人間関係も
こういうことからのモヤモヤが発端で、仲良くなったりトラブルになったりしていたような気がする。
そして警戒心を発令させてその人とは距離を置きたいと自然に離れていくのが私の定番パターンであった。

そこにはやはり
あなたが先に私を嫌いになり私を怒らせたという気持ちがつきまとっていたと思う。
おっそろしく自分の思い込みなんだけど。
自分を正当化したかった。
だって何も悪いことしてないし!!

でもいくら離れても顔を合わせなくてはいけない人もいて、じゃあ余計なことはいうまいと、必要最低限の関わりだけをして距離感は変えようとしない。
それは自分が傷つかないようにと守っていたからだ。

しかし笑顔だって混じえているはずなのに私のよそよそしさは透けて見えていたのだろう。その距離感がいつしか「感じの悪い人」になり、「なんかさー」の話題の対象になり、いつのまにかこちらが悪い人みたいになっているような恐ろしさを感じる時があった。
そうなると、慌てるとともにいきどおりも感じるようになる。なまじっか良い人ぶろうとするのがいけないのか、と反省もしながら、嫌われてもいいじゃないか、誰からも好かれるなんて無理なんだからとかよくある意見をなぞって開き直る。
そのうち、いやいや私は別に最初なんでもなかったんだし!あっちからなんか嫌な感じだったんだし!と
振り回されてることに腹が立ってくる。
悪い方にばかり考えるループに入り込んでしまうのだ。


冒頭の写真に使ったドラえもんの一場面は
ある中学生が好きな言葉として選んで賞をもらったと
話題になった時初めて知った。
結構最近だ。
ドラえもんにこんなシーンがあったのかあと驚いた。

似たようなことは前にも聞いたことがある。
その時はのび太くんのようにまでは驚かなかった。
今回は
少しシチュエーションを変えて考えたくなった。

いじわるな人に親切にする
それはすごい素晴らしいことだけど、
相手のとらえかたによっては
余計にチクショーと思わせたり
おちこませたりして
良い関係を築くという点では
むしろ難しくしてしまうということはないだろうか。

それはあくまで相手の勝手なとらえかたであり、
こっちは嫌な思いをしてまでも親切にしているのに
いじわるもしてさらにチクショーだなんて
全く限りなく救いようがないが、
私はそんな感情を
以前持ったことがあったのを覚えている。

相手の素晴らしさに打ちのめされて
実は自分のいじわるだって意識しているのに
相手の方が一枚も二枚もうわてで、
この人にはかなわないなという気持ちが
自分を更に苛立たせた。
余計に自分を嫌いになる、あのいやーな感覚。

そんな展開だったら、
結局は仲良くはなれない。そんな気がする。
しかし、このドラえもんのシーンはまさにそれでよいのかもしれない。仲良くなることが目的でなく、いじわるな人にいじわるで返したくなるけど、視点を変えてみない?例えばさあ…というだけの話かもしれない。

でも私はできれば仲良しになれたらいいなと思った。
いじわるな人に親切にするというだけの言葉だと、
意地でも負けたと認めるものかというような気持ちもみえるようで、親切にしようとした方も、本当はそれは本心ではないように思えてくるのだ。

自分のことを嫌いでいてほしくないなあ。
できれば好きでいてほしい。

私だったらこんな感じ。
本心は情けないくらい弱いのだ。

だからいじわるな人にはどうするか。
「どった?」は、どうだろうか。
どうしたの?の精神。
まあ私はできないけど笑(できないんかーい)
エラそうによく言うわと書きながら思っている。
でも私がカリカリしている時にこんなふうに接してくれたら嬉しいなと思った。特に夫。笑

理不尽な不満をぶつけられたらそりゃ迷惑だ。
なんでそんな言われ方しなきゃいけないんだって怒りたくなるのは当然。
でも「どった?」って言われたら
力が抜ける。感じ悪かったことも反省する。

実は不安だったことに気づく。

子どもがまだ本当に幼かったころ
私はよくイライラした。
長男には時々手も上げてしまった。
鬼の形相と化した母の様子に
次男はよく火のついたように激しく泣いた。怖くて怖くて仕方がなかったのだろう。
ここでも対象的だが娘はいつも泣かなかった。毅然としたまま私を複雑な表情でみていた。
それは睨んでいるようにも泣くのをこらえているようにもみえたが、怒り狂ったお母さんは、
やっぱり心底怖かっただろうな。

そのうち子どもたちは少ししゃべれるようになると
私が例えば泣いていたりする時、子どもたちはすぐにきづき、少し戸惑ってから
「どった?」と聞いた。
「たーたん、どった?」(お母さん、どうしたの?)
と顔をのぞきこんだ。
これがなんて救われたことだったか!
うれしくて笑った。抱きしめた。

私は子どもたちが大きくなってからも
ふざけて何かのたびに「どった?」を使うようになった。


なんで俺ばかり責められなくちゃいけないんだ!
いつもお前からの文句がケンカの始まりだ!
これは夫の言い分だった。
いやちがう!私はアレもコレもと過去を持ち出し私の怒りはあなたに非があるとなじる。
おれは悪くない私は悪くない。
そっちが私を怒らせているんだ!

私たちのいじわるはこうしてはじまり
終わりのない言い合い合戦が続いた。

でも、お互いの不満は自分の不安だったのだ。
いまならそれがよくわかる。

この不安をたすけてよ!

だからいじわるな人は不安をかかえているのだと考えてみる。もしかしたら自分でもわかっていないかもしれない。だから、そこにグイッと入る。
あなたの不安はなんですか?
「いじわるされるたびに
しんせつにしてやったらどうだろう。」

「どった?」ときいてみてあげたらどうだろう。



退院したら
もっと仲良くしたいと思える人が浮上してきた。
スーパーの店長だ。
もっと私から話しかけてみようかな。
なんだかファイトが湧いてきた笑

それと夫。
最近は特に問題ないけど
問題ない程度なんてもったいないな。
せっかくだからもっと相手を知りたくなるような、
すぐ「どった?」って聞きあえるような関係を作ろう。

普段の「伝える」をもう一度見直そう。




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