宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を私はもう何回も読んだ。
いつ読んでもすごいと思ってしまうのです。
生きることの厳しさと悲しみに満ちたお話でありながら、最後まで優しさにあふれているこの物語のことを。
「やい。この次には熊なんぞに生まれなよ。」
熊を殺す事を生業とする小十郎。けして熊が憎くて殺すのではないと熊に語り掛けます。
そして、そんな小十郎に殺される熊もまた小十郎が好きだというのです。
息子も妻も病気で亡くしている小十郎。今日も「硝子板を敷いたように凍ったり、つららが何本もじゅずのようにかかった」ひどく凍てつく道を歩いて、熊を探しにでかけます。家には90になる母親と小さい子供らばかりがいて、7人家族の生活は、すべて小十郎のかせぎにかかっているのでした。
まちに熊の皮と肝を売りに行くも、大きな荒物屋のだんなに虐げられながら値をたたかれて、それでも頭を下げて買ってもらいます。
人間社会の「いやなずるいやつら」を批判しているのか
現実の悲しみを書いているのか
賢治のメッセージはどちらだろうかと
ふと考えてしまいます。
ある日銃を構えた小十郎の前で熊が両手をあげて叫びます。
熊はいいます
それからちょうど二年目の朝、外へ出たらあの熊が倒れていたのです。
口からいっぱいに血を吐いて…
小十郎は思わず拝むようにするのでした。
私はこのシーンを読むと、いつも力が抜けるような思いになります。小十郎も熊も「もう死んでもかまわない」というこの場面。
絶対みんな死ぬんだな。
そんな思いがふと頭をよぎるのです。
絶対いつかみんな死ぬ。その時が、もう今でもいいかなと言う小十郎と熊。言いながら、でも小十郎も熊も少し心残りがあるようで。
わかるなあと思うのです。
わたしだったら、心残りは家族です。
もう少し子供たちの成長を見てみたい。
小十郎も熊も、自分の死への諦めとはうらはらに、家族が生きることは強く願っていたからこそ、自分が死ぬことの影響を思案したことでしょう。
生は自分のためだけにあるのではないのだという、宮沢賢治の利他の思想を、ここでまた改めてしみじみ感じるのでした。
ずっと心の葛藤に苦しんでいた因果な商売を終え、しかも殺し続けることで自分が生かされてきた熊に、自分の命を奪われたということが、小十郎にとっては何事にも代えがたいほどの満足であったのではないか。
罪滅ぼしのような気持ちで死んでいけたのではないか。
小十郎の死は絶望ではなく、彼が望んだ形だったのだとしたら、彼にとっては幸せな死に方だったのではないか。
救いをもとめるかのように、彼の死の意味を自らに問いかけてしまうのでした。
死が、生の集大成であり、彼が立派に生き抜いたことを証明したい。
しかし、小十郎の死はやはりただせつなく、最後の場面で毎回悲しさで胸があつくなるのでした。
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