超受験対策RPG妄想製作室 ⑧ゲームにおける確率について

人生ゲームから麻雀、ソシャゲなど、さまざまなゲームにおいて確率が存在する。それは完全情報ゲームの将棋や囲碁においてすら、先攻後攻を決める段階で存在する。これをどのように捉えたらいいのか、探っていこう。

1.不可知なものとしての確率
ゲームにおいては、先の展開が読めないということが非常に重要なファクターである。これからどのような戦略をもとに、どうゲームを組み立てていくか、それによってゲームがいかように展開していき、またそれにどう対応するかというようなプロセスの繰り返しがゲームの醍醐味だ。これに反して、例えば31ゲーム(1から数字を決められた数の範囲で数え上げていき、最後に31を言った人が負けのゲーム)などは、パターンが限定されているため、2人で行う場合には先攻後攻を決めた時点で勝敗がわかり切っており、全く不可知な部分をもたない。これが何を意味するかといえば、最初から行き着く先のわかりきったゲームは、もはやプレイする意味を持たず、先攻後攻を決めるジャンケン(もっとも確率を体現しているゲーム)と等価になってしまうのである。しかし、これはあくまでお互いに知識を持っているという前提であり、ゲームによってはその法則性を捉えるまでが楽しさとなることもある。ただ、それは要素の複雑化を意味し、これをやろうとすると、ルールはどんどん増えていき、マニアックな方向へと進んでしまう傾向にある。そこで、完全に不可知なものを手軽にわかりやすくゲームに導入する目的で、多くのゲームは確率的な要素を入れているのだと考えられる。(構造として、確率と複雑性の循環論的なものかもしれない)

2.確率が起こす感情的起伏
確率は、その不可知性から古来からギャンブルとして利用され、現代ではソシャゲのガチャにも取り入れられている。そこに射幸心を煽るような報酬性があれば、脳内の強い刺激を生み出し、ときには中毒者が出てくるほどのものだ。なので、じつは確率と報酬だけでゲームは成立してしまうほど、お手軽で便利な要素なのだ。
とはいえ、通常ゲームにおいて、あまりに確率的要素が強すぎれば、戦略的なゲーム性も落ちてしまう。ジャンケンは複数人で何かの決断をするときのツールとしては役立つだろうが、その行為それ自体をよろこぶのは、小さな子どもくらいだろう(それはそれで遊びではあるが)。確率は、ただあるがままの存在で、そのものがゲーム性を含んでいるかといえば、疑問である。

3.RPGにおける確率との相性
では、ここまでをみて、ゲームに確率的要素をいれるべきだろうか。論理的に考えてみれば、答えはYESとなる。
ゲームの面白さとしての不可知な要素を、繰り返しが必然的に必要となるRPGというジャンルに導入するためには、まさにうってつけの選択だと言わざるを得ない。確率は、繰り返すことによりある程度収束する。しかし、一回いっかいの選択としては、どう転ぶかわからない、一喜一憂の感情を引き起こし、当たれば多幸感が、外れれば苛立ちが立ち現れるという中毒性がある。さらに、このゲームにおける目的上、どっちに転んでも感情を引き起こせるということでは、記憶へのより強い定着を引き起こせるという意味では成功なのだ。だから、状態異常を伴う確率的な攻撃などは、この観点からいえば、積極的に取り入れるべきだろう。

4.確率と主体性
しかし、やはりこれについて大きな懸念がある。この要素を導入するということは、裏を返せばそれは完全な確率としての遊びであり、本質的にはサイコロ遊びと何ら変わらない。現代の確率要素の多いゲーム、例えばポケモン対戦のようなものにも、もちろんプレイヤーの介入度は十分にあり、その確率に左右されながらもそれを含めて選択肢を吟味した上で対応するところにスキルがある。しかし人生とは有限であり、ゲームも有限である。いくら確率が高かろうが低かろうが、それを「引いて」しまえば、そこにあるのは結果のみだ。どんな戦略も、いっきに台無しになる可能性もある。巨視的な視点でみれば、たしかに確率は収束するが、それをゲームプレイ中に神の視点に立って実感するのはほぼ皆無であるだろう。であれば、そこに現れる感情は、多幸感と苛立ちに追加して、無力感もあるかもしれない。自分がどれだけ努力し、戦略をたてても、最後は神の手が決める。これでは教育的なゲームとは言えないのではないか。


5.結論
ここまでの論考から、
①RPGにおいて、確率的要素は相性がよい。
②教育的な観点においては、自分の行動が確率に左右されるのは、主体性を損なう。
を前提として、どのような結論を引き出せるか。それは、主体性を損なわない確率の利用である。つまり、決定的な効果を伴わない程度の確率の利用が望ましい。
例えば即死技だ。出会った敵が確率で即死技を使ってきた、または自分が使う場合、そこには思考停止の選択しかない。なにを使いどうダメージをとり同時に味方をどうケアするかという戦略的駆け引きが、即死技=絶対的なものとして戦略を狭めるのだ。対策にしても、それが選択肢の一つではなく、必須のものとなる可能性は高く、ゲーム性そのものを崩してしまう。
逆をいえば、ある程度の他の選択肢と競合するくらいのものであれば、問題はない。しかし、それだと特に大きな感情、多幸感はひきおこさないだろう。しかし、主体性を維持するという意味では、決定的な効果をもつ確率的な状態異常は排除すべきだと考えられる。

(補論)統制された確率は郵便的ではない
確率を考える上で考えたい概念が、「郵便的」というものだ。これは思想家の東浩紀が、フランスの哲学者のジャック・デリダから引き出した概念であるのだが、郵便はときに意図した配達先に届かず、誤配をしてしまう。その誤配が、当初の意図を超えて、思いもよらない効果を引き起こすということを、郵便的と表現している。東はこれを重要視し、世界をより豊かなものとするファクターとして、世界に郵便的なものを導入すること(観光客など)を訴えている。
ゲーム内での確率は、この概念を導入して考えてみるとどうか。少なくとも、状態異常や特定の確率で効果のある技に関していえば、それはあらかじめ統制された確率に他ならない。そこには、限定され完全に予想された、設計主義的な確率があり、本来的な意味での不可知性はなく、また郵便的なものとはいえないだろう。
では、ゲーム内での郵便的要素とはいかなるものか。例えば、バグがその一つだといえるだろう。バグは製作者が意図していない、まさに誤配としてプレイヤーに届く。それはゲームの根幹を揺るがすようなものかもしれないし、もしくはRTAなどで利用される、それそのものがゲーム性を生み出すものかもしれない。しかし、それは副次的要素としてしかあり得なく、そもそものゲームの設計に関しては、論理上設計された確率しか導入することができない。
ならばゲームに誤配を持ち込むことはできないかというと、そうでもないだろう。フリーシナリオで有名なロマサガシリーズには、数々のバグが発見されているが、それ込みで今なお楽しまれている文化がある。なぜシリーズを通してそのような楽しみ方をされているかといえば、「フリーシナリオ」を導入し、要素を大量にゲームに設置して、通常の一本道RPGとは違ったゲームを作ろうとした結果である。聖剣伝説LEGENDofMANAの装備やゴーレム作成などもその一つだろう。つまり、ゲームを作る上で、完全なコントロールを目指すのではなく、ある種の余剰、プレイヤーに任されるような要素をただ「置いておく」ことが、それに近いのではないか。昨今のオープンワールド系のゲームにも、同じものを感じる。(筆者としてはFALLOUT3が革命的だったが、それはまた別の話で)

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