ヒント 病床信仰は根深い

ある町の病院を診療所とするということについての住民フォーラムが開催された。私はシンポジストとして壇上で意見を述べることとなった。

その病院は、車で20分ほどのところに、同じグループの基幹病院と分院の二つの病院が存在するというロケーションにある。私の役割は住民に医療行政の流れを説き、病床がなくなることの意味を伝えることであると理解していた。まず、医療制度の歴史を簡単に述べ、そして、医療法第6条にある国民の努力について触れておいた。このような場面で経営の効率性を説くことはかえって言い訳がましくなるので、あまり触れないこととした。

フロアからは、"病床がなくなることは医療機能が低下することだ。なぜそのようなことを突然いい出すのか?"という意見や、"認知症家族の介護を苦に自殺があった。認知症介護のための病床が必要な時に、病床を無くすのはおかしい。"とする開業医からの意見が発せられた。

発言者の気持ちはわからないではない。
かなり感情的であることは確かのようであるので、そのような場所で反論や言い訳は問題を複雑にする。ましてやどうにでも解釈できる数値データは役に立たない。
前者に対しては、病床がないからといって機能が低下するわけではないことを説きつつ、住民も理解するよう努めることと、このような意見交換の場が設けられることの意義を述べた。
後者については、もっと深く掘り下げて、そのような不幸を防ぐことの大切さについて申し述べた。

いずれにせよ、身近な病院から病床がなくなることへの抵抗感は相当のもののようであった。"病床は備品に過ぎない。"とするのが筆者の持論である。外来機能や在宅機能の強化によって、そして、地域包括ケアシステムの進展によって、自宅療養に対する不安は軽減するはずなのだが、今のところ誰もそれを経験していない。それは住民だけのはなしではなく、医療提供施設側にとっても同じことだ。

今回の病床削減は、地域全体の医療機能を維持発展させるための建設的な機能分担なのだが、住民にしてみれば、目の前に存在する病院の姿が変わることに対しては不安を抱かずにはいられないという心境なのかもしれない。そして、その根底にあるのが信仰にも近い病床の捉え方なのである。

地域医療構想における病床数の試算は完全に独り歩きし、既成事実と化し、動かせない数字であるかのように扱われる。急性期病床数が過剰だとか、慢性期病床が不足だといわれても、簡単に転換できるわけもない。住民にとって、そんな細々とした区分など問題ではない。要は近所に病院があるかどうか。それを自分たちが利用するかどうかは別問題なのかもしれないが。

兎にも角も、住民は意見をもっている。それが利己的であろうがなかろうが、受け止めるべき意見である。受け止めたあとは、その意見を理解して、取り上げるべき意見かどうかの評価をしなければならない。その意見が誤解に基づくものであれば、その誤解を解かねばならない。
住民の意見を聴くというのは、公立病院の経営者にとって骨の折れることなのだが、これこそが民主主義のコストというものであろう。

病床はなくなるが、医療機能までなくなるわけではない。むしろ、身軽になって機能を強化する方向に動こうとしている。このことについて、懇切丁寧に説明して、理解を求めていくことになる。ここからは、覚悟と根気。それを支えるしっかりとした論理が成否を決定することだろう。

公立病院と住民はそもそも利害が一致する存在である。小賢しい交渉術などはすぐに見透かされると思っていた方がよい。きっと、公立病院の経営の質とは、このような場面で真価を発揮するのだと思う。

それにしても、病床信仰の呪縛から信者を解き放つというのは覚悟のいることである。

谷田一久の医療経営学
2016年9月5日

医療経営学の視点から、病院経営の抱える問題について、解決策を考える上でのヒントになれば幸いです。