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須永伝蔵の冒険、或いはあなたの知らない(かも知れない)彰義隊の物語(1)

※この文章は、大河ドラマ『青天を衝け』放映当時にTwitterに連続投稿したものを書き改めて投稿している。


はじめに

 なに須永伝蔵が何者なのか御存知ない? 近年大河ドラマ『青天を衝け』や新一万円札で再び脚光を集めたあの渋沢栄一の従兄弟であり、家庭の事情で同宅で育った兄弟分であり、栄一の手によって一橋家に召し出されるや徳川慶喜の将軍襲位に伴い幕臣に転じ、幕府が崩壊すると彰義隊に身を投じ、その後は野の人として官に仕えることを拒み、最終的に栄一らの勧めと出資により箱根仙石原の開発始祖となった人物ですぞ?
 今から語るのはそんな須永伝蔵の、『青天を衝け』では余り語られなかった生涯最大の冒険――彰義隊の発起とその分裂後における彼の奔走の物語である。
 なお、主な典拠は山崎有信『彰義隊戦史』第三部のうち「本多晋『喘余吟録』」「須永伝蔵彰義隊に関する経歴」であり、補充的に立花種恭『老中日記』に依った。ただ、あくまで伝蔵目線(ときどき本多晋目線)の物語として脚色しているものであるから、正確でない部分は全部筆者の文責としてもらって構わない。というか、『彰義隊戦史』は普通に国会図書館がウェブ公開してるから、ぶっちゃけそっち読んだ方が正確性という点では捗るぞ。な。
 また、実のところ須永伝蔵は一橋家に仕える頃は虎之助と名乗り、彰義隊の頃は於菟之輔と名乗っていたのだが、めんどくさいし明治以降は伝蔵の名乗りに戻すので以下の本文では伝蔵で通す。

彰義隊以前、或いは瓦解しゆく幕府

 さて、須永伝蔵は従兄弟の渋沢栄一に誘われ一橋家に仕えていたのだが、慶応二年に徳川慶喜が宗家の家督を襲うと、一橋家の家臣はだいたい徳川の直臣にマージされた。伝蔵も御多分に漏れず幕府陸軍の下士官として組み込まれ、江戸に勤めることになった。
 さて恐らく一橋時代から伝蔵と親しかったと思しき本多晋(※当時の名乗りは敏三郎。以下、伝蔵や栄一同様に明治以降の名乗りの晋で通す)という者がおり、これも幕府陸軍に同様に居るのだが、大政奉還の報を聞くや彼らはにわかに政治に関心を持つようになる。
 本多晋の妻の父が韮山の江川家に仕えていたので、彼は韮山塾人脈――江川太郎左衛門が養った海軍・砲術人脈――にそれなりのコネがあった。で、その頃江川家・韮山塾人脈で在江戸の者で最有力者と言えば柏木総蔵だった。
 晋は総蔵に詰め寄った。
「今すぐ上京しましょう!」
 しかし総蔵は上京することの時勢的不利を冷静に説き、晋はこれに従った。ところでこのとき松本良順も居合わせていた。
「それより江戸にいるお偉いさんに話をしてみるかね? 私ゃ御典医だから何人か紹介できるけど?」

 本多晋は良順の紹介状を頼みに、早速若年寄・立花出雲守種恭の御役邸に向かう。
 ところでこのとき晋も伝蔵も幕臣としては御家人扱いである。御目見得以下である(御目見得以下からやり直しなので『青天を衝け』で栄一も不貞腐れてましたね?)。そもそも若年寄本人が会ってくれるとは端から思っていない。ところが晋が時節を自分なりに切々と説くと……なんと立花出雲守本人が出てきた。
「見所がある。また訪ねて来るがよい」
と直直に言われて有頂天である。
「と言うわけで出雲守様のところに出入りできるんだよ。お前も来いよ須永?」となる。時に慶応三年十月末のことであった。
 以来晋と伝蔵は伴門五郎・青木平九郎・岡本数馬・浅田剛蔵らを同志とし、しばしば出雲守の屋敷に出入りした。
 このころ伝蔵は出雲守に改めて上京を説いたが、その無益を説得されたという。
 十二月。晋・伝蔵らは、「集議所を作ろう」という提言を出雲守に提出する。上下を問わず議論する場を設けようという話であり、議会の走りのようなものと言えば言える(が、これは多分阿部潜あたりの請け売りなのだと思われる)。
 明けて慶長四年(後に遡って明治元年となる)一月、鳥羽・伏見の戦いの敗戦。将軍・徳川慶喜が大坂を棄てて東帰する。江戸城は主戦・恭順の議論で紛糾する。で、立花出雲守は老中格に進む。
 このころ晋・伝蔵らは再び出雲守に提言をするが、「恭順するならするで幕臣皆で髻を切るくらいしなければなるまい」と書いてあったりする。激烈である。出雲守も読みはしただろうが、果たして幕閣に諮ったものかどうか。恐らく一読後、扱いに困って放置したのではないか。

 さて、立花出雲守は何を考えてこいつらに接近したのか。その一端を伺わせる話がある。
 出雲守はこの一味のひとり・青木平九郎に、『将軍からの密命である』といって、官軍の動向を探る密偵に仕立て上げたのだ。
「そういうわけで青木から偽名でお前たちに連絡があるから、あったら知らせるように」
と出雲守は伝蔵と晋に命じたという。
 何度か音信はあったようだが……青木は帰って来なかった。中山道で捕らえられたという。
 結局のところ、出雲守にとっての彼らは、使い勝手のいい軽輩でしか無かったのかも知れない。青木の顛末を見るとそう思えるのだ。(ただし、青木は別にここで死んだ訳ではないことは書き添えておく)

 さて、松平大和守直克(※御家門の有力者。前橋藩主)のもとに旗本・小田井蔵太(※元々は二本松藩士だったのが剣名ひとつで旗本に成り上がったという一代の豪傑)が訪ね、『徳川の御家のために大和守様が嘆願の上表を持って西上すれば官軍も聞く耳を持ちましょう』と説いた。
 『幕命ならするが?』と返されたので、蔵太は晋・伝蔵らを巻き込んで立花出雲守に面談し、この件を上申した。
 ……ところが音沙汰がないので、大和守はへそを曲げた。
「お前たちは私を騙したのか?」
 蔵太は開き直って啖呵を切る。
「殿様を何故騙しましょう。お疑いなら腹を今切りましょう」
 伝蔵・晋・門五郎は割って入った。
「な、何か事情があるのでしょう! 我々でもう一度出雲守様のもとに赴いて御下命を求めて参りますから! ほら小田井殿も抑えて!!」  
 で、三人で出雲守邸に急行して面談したところ、出雲守は言う。
「実は大和守様の上表案が激烈過ぎて扱いに困っておるのだ」
「それはどのような?」
「慶喜公が隠居・謹慎し、幕臣は皆髻を切ってこれに倣う。幕府の封土は返上する、とある」
 この内容、実のところ先の晋らの献言と大差ない。晋らの献言は放置されたのではないか、というのはこの『松平大和守上表の放置』案件からの推測である。
 伝蔵は
「大和守様の仰せの通りするしかありますまい。隠居・謹慎、封土返上云々は慶喜公の御意志次第ですが」
と言い、他二名も同意した。
 こうして松平大和守上京は決行された。……もっとも、上表の趣旨は聞き届けられ無いまま、大和守は京に留め置かれるのだが、それはまた別の物語。

彰義隊のおこり(※伝蔵目線)

 さて二月。立花出雲守ら従来からの老中・若年寄は悉く解任され、大久保一翁ら旗本層がこれに代わる。
 政情が激変する。江川家危うしとみた柏木総蔵は韮山に引き上げた。どうもこの頃から出雲守も伝蔵らを次第に遠ざけるようになる。
 二月上旬のある日、伝蔵は大久保一翁や渋沢成一郎らを訪ね歩き、その帰りに一枚の檄文を見る。曰く、
『官軍官軍と言うが薩長の計略による虚名であろう。我々は十九日に山王社で挙兵する』
 伝蔵は思う。
(いや、いきなり挙兵したら世情が不安になるだけだろ……常識で考えて……)

俺の方がまだ上手く書けるぞ

「真に幕府を、上様を擁護しなければならない。檄文を発しよう。応じる人が多ければ一隊を組織し、それが成らなくても士気を鼓舞出来るような檄文を!」
 伝蔵は晋・門五郎に説き、同意を得た。そして檄文を発した。これが彰義隊の全ての始まりである――少なくとも、須永伝蔵と本多晋は後々までそのように語っている。
 二月十二日の第一回集会では集まる者は一橋所縁の陸軍の士を中心に僅かに十七名であった。
 それが十九日の第二回集会では早くも六十七名にまで膨れ上がったので『今ここで同盟しようぜ!』という声が挙がったが、伝蔵は敢えて止めた。
「妻子のある者は暇を告げる時も要る。同盟は二十二日にしよう」
 勿論、伝蔵の意中のリーダー……渋沢成一郎(喜作)を説得する時間を稼ぐためである。成一郎はこのとき奥右筆であり一橋所縁の幕臣の中では出世頭であったから広く幕臣を纏められると考えたし、何より渋沢一族なら伝蔵には母方の親戚なのだ。
 恐らく二月十九日、伝蔵は晋・門五郎を伴って成一郎宅を訪ねた。成一郎は容易に首を縦に振らなかったが、そこに尾高惇忠が現れた。これもまた伝蔵と故郷を同じくする渋沢一族の係累であり、成一郎ら血洗島の若者たちにとっては学問の師というべき人物であった。
「伝蔵が正しい。一橋家恩顧の若者が組織を起こそうとしているのだ。事を誤っては御家にとって大変なことになる。お前が纏めなくてどうするのだ」
 明記された記録はないが、恐らく伝蔵が事前に惇忠を説得していたのだろう。惇忠の言葉の前に、成一郎は折れた。
「――やりましょう」
 二十二日の第三回集会に至って、成一郎らを加えて八十七名に達した。このとき天野八郎も初参加したという。
「……誰ですかあれ」
「ええと……小田井蔵太殿の友人……に天野新太郎殿が居られるのでその厄介なのか何なのか……よくは知らん……」
 という程度に晋らもよくは知らない八郎が、しかしこの後謎のカリスマによって急速に隊の中心に成り上がっていくのである。
 これが二十三日には百人超の規模に達したので、成一郎・伝蔵らは本願寺に行きこれを借り上げようとした。勿論寺側は容易に応じないが、何しろ三桁人が押し寄せてくるので、結局済し崩し的に大広間を占拠することとなった。
 ここで天野八郎が『尊王恭順有志会』と大書した表札を持参し寺門に掲げた。
 程なく三百人規模に膨れ上がった隊は、集議を以て隊号を『彰義隊』とした。投票によって、隊長を渋沢成一郎とし、副隊長を天野八郎とし、伝蔵・晋・門五郎らはその下の幹事に収まった。

 さて、彰義隊には金が無かった。
 伝蔵は一計を案じた。『横浜には御金蔵がある。幾らか援助してもらえないだろうか?』
 伝蔵は阿部杖策を伴って神奈川奉行所に行って金の融通を頼むが、呆気なく断られた。
 もっとも、杖策が哀切に時局を説くので、同情した奉行所の配下が二千両の手形だけを差し出したという。
 ――こういうことをするからなのか、『渋沢の一派は金に汚い』などと評判が立つ。彰義隊内部で、成一郎派と八郎派の反目が始まる。

――次回、『水戸編』そのうち書きます。


 



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