「戦争」と「真善美」
プラトンが「真知のイデア」とせずに「善のイデア」とした理由は、竹田青嗣氏によれば次のようになる。
善を皆が追究していけば、暴力行為、つまりその極にある戦争行為に対峙することになるというのである。
戦争が起こりそうな雰囲気となると「真善美」などと理想を掲げていてどうなる、もっと現実をみなきゃと叫ぶ「現実主義者」の連中が鼻息があらくなって、防衛費を2倍にするのは当然だろうということになる。
ひとたび戦争が始まるやいなや社会のあらゆる努力は、勝利することと生き延びることへの合理性へと差し向けられるが、この合理と効率への努力は真善美の価値と本質的に背立的であると竹田は叙述する。
そして次のトゥーキュディデースの『戦史』はその見事な範例であると述べる。
古代ギリシャから現代に至るまで人間の営みは、まったく変わらないようです。
第二次世界大戦で日本は徹底的に破壊されたあげくに、さらにダメ出しで人類初の原子爆弾を広島と長崎の二ヶ所に落とされて焦土と化した。
この反省から、世界で唯一と言われている「戦争放棄を主張する憲法」を成立させたのだが、その反省も80年も経過するとすっかり忘却されています。
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