『中国哲学史』 中島隆博(著)朱熹と朱子学について

朱子学
宋学、理学、性理学、道学などとも呼ばれている。宋学は、朱熹だけではなく、周敦頤、 程顥( 号 は 明道)・程頤( 号 は 伊川) の 兄弟、 張載など宋代の思想家の営為の総称である。理学、性理学は、朱子学の重要な概念である「理」、あるいは「性」に着目した呼称である。道学は、文字通り道に関する学問の意であり、朱子は自身の学統を道統と呼んだ。


朱子学の基本概念
身体的、物質的な気と、天の理を共有する性からあらゆるものは説明できる。孟子を受け継いでいるので、性は本来的には善であるはずだ。では、悪はどこにあるのだろうか。それは、気としての身体や、欲望が偏った私から生じる。つまり私欲が、性を構成している天理を蔽い。悪を生み出す。

人の性が善である以上、人は根源的には善であるが、それは気に基づく身体や欲望によって損なわれる。ではどのようにして身体や欲望を制御すればよいのか?


朱熹が示したのは
①直接的に身体や欲望に働きかける。
儒家の根本的カテゴリーである礼に訴える


②間接的に働きかける。
悪を生み出す自己欺瞞を、誠意によって制圧しようとする。
朱熹がこの方法を取ったのは、禅を強調する仏教との格闘があった。


ではその禅をどう乗り越えたか?ここで、導入されたのが
①内部の領有に対応する誠意。
自分の内部は他人には分からないことであり、そこで生じる善悪に対しては、自分ひとりで対処するしかない。自己欺瞞の可能性を、それが生じたか生じないかわからない萌芽において、事前に禁圧しようとした。しかし、この方法では、自己啓蒙がなぜ成功したと確証できるのかという問題と、こうした自己啓蒙を他人も始めるにはどうすればよいのかという問題が発生する。

②外部への通路に対応する格物到知。
自己啓蒙の困難さから逃れるために導入した。誠意が実現していることを保証するには、外の物の理(意味)を知り尽くすこと。
この意味としての理は、心の中で知るものであると同時に、外の物において見出せるものであるから、他人とも共有可能となるはずだ。しかし、この方策には、物の意味を知り尽くすことが実際にはできそうにもないという弱点があった。

自己啓蒙が自己だけではなくて、他者も自己啓蒙するには?
民 も また、 自己 啓蒙 に 成功 し た 君子 を 前 に する と、 自発的 に 自己 啓蒙 を 始める はず だ という 設定 にした。なぜならその民は「自らを新たにする民」だからである。だが、この方策には、君子でもない民が、君子が自己啓蒙しているのを理解する力があるかどうかという重大な難点があった。


この朱熹の方策を批判したのが王船山だった。どんな批判なのか?


そもそも小人はみずから欺きもしないし、他人を欺きもしないと言う。

なぜなら、「 不善 を 覆い、 その 善 を 著そ う と する」 小人 の 意識 は、 他人 を 予想 し た もの で あっ て、 他人 を 予想 し うる 以上、それがなす悪には限界があるからである。

要するに、小人のとっては、他者の存在が悪を抑える。そうであれば、悪をなすのは他者に見られることのない独の内にいる君子しかいないとなる。つまり、君子こそが巨悪をなすという法外な帰結となる。


朱子学の重要な鬼神論とは何か?
朱熹は鬼神すなわち祖先の霊魂や幽霊を気の運動に還元しようとする。しかし、そうであれば、儒教にとっての最重要命題である祖先祭祀を意味づけることができない。

何故なのか?
生死も単なる気の運動ということになると、死んだ祖先に対して祭りを行うことは無意味となるから。 

この矛盾を朱熹はどのように解いたのか。?
祖先祭祀を実行するためには、子孫と祖先のつながりを朱熹は「血脈貫通」と考えた。

これを認めるにしても、なぜ祖先の気が感応するのかが問われてしまう、さらに幽霊の議論を突き詰めていくと、それに対する祭祀は、「血脈貫通」した同類・同族の間での精神の結集である必要はなくなる。

すると、朱子学は血を抜きにした祭祀を前提としていたとなる。朱熹は、安心できる他者としての祖先のみを鬼神としたいのであるから、万人がすべての死者を祭ることができると結論づけはあまりにも法外となる。 

そこで朱熹は鬼神論を放棄した。それでも朱子学が、曲がりなりにも他者の問題にこだわり続け、その理論限界を示そうとした自体は重要である。

次回は、次の時代の中国哲学である陽明学がどのようにして朱子学を乗り越えようとしたかという話となります。

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