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檜垣立哉(著)『ドゥルーズ入門』読書メモ

時間 が 流れる こと で 考慮 さ れる べき は、 流れ の 大部分 を なす 過去 の 方 で あり( それ は 純粋 記憶 と 術語 化 さ れる)、 他方 現在 とは、 その 流れ の 一 断面 に すぎ ない こと を 強く 主張 する。


一般的 には、 無意識 や 暗黙知 などとの 繫 がり を 連想 さ せ うる こうした 事態 を、 ベルクソン‐ドゥルーズ は、「 潜在 性」という 術語 によって とりだし て いく。


潜在的 な もの とは、 決して 現実的 な もの になり え ない ながら、 それ 自身 は 仮構 的 では なく、 まさに 流れ の なか で 実在 的で ある 当の もの なので ある。


ドゥルーズ は 明らか に 存在 からの 存在 者 の「 発生 論」 を 描い て い た ので ある。 それ は 存在 と 現象 という 二元 的 な 存在 発生 論 を、 ベルクソン 的 な ターム を 駆使 し ながら、 差異 の 空間 から 個体 への 力 動的 展開 という、 明確な道筋のもとにとりだしてみせるものである。


差異 は「 表象 = 再 現前 化」という システム に 従属 し ない もの として とりださ れる ので ある。「 表象 = 再 現前 化」 という システム が、 差異 を 二次的 な もの と なし、 否定的 な もの に 押し込め て しまう。 差異 は、 それ とは 異なる もの として 見いださ れ なけれ ば なら ない。


「 表象」 は、「 同一性」「 アナロジー」「 対立」「 類似」 という 論理 に したがっ て 作動 する もの で ある。 それ ゆえ、 差異 で ある 存在 は、 こうした 四つ の あり方 に 捕らわれ ない 仕方 で 見いださ れる べき に なる。


さて、「 有限 者」 の なか に ある「 無限」 を 論理 化 する 装置 を 見いだし た のは、 紛れ も なく ヘーゲル と ライプニッツ で ある。 この 両者 は、「 無限大」 と「 無限小」 が、「 有限」 の 内側 に 入り込み、 それ を 揺るがし て しまう 事情 を 的確 に 見つめ て い た。


この 時間 こそ が、 ドゥルーズ の「 超越論的 経験論」 を 支える もの に なっ て いる。 それ ゆえ、 方法論 的 にも この 時間 の 提示 は 重要で ある。 だが それ だけでは ない。 この 時間 を 背景 に し た「 永遠性」―「 現在」 という 対比 そのもの が、 ドゥルーズ の 述べる 意味 で、 差異 と 反復 として の、 シミュラークル として の この 世界 を 描く 基本 に なっ て いる ので ある。



記憶 が 流れ の 潜在 性 を 形成 し、 その 尖端 が 現在 で ある という こと に なる。 ここ で「 実在」 に関する 視角 の 逆転 が 生じ て しまう ので ある。 ベルクソン にとって は、 現在 的 な もの が 実在 する と いう よりも、 記憶 こそ が「 潜在的」 に 実在 する。


ドゥルーズ が「 第二 の 時間」 の 主軸 として 捉える のは、こうした「 純粋 記憶」 で ある。 それ は「 現在」 で ある「 第一 の 時間」 を 包括 する 時間 の 流れ の 全体 性 で ある。


これ に対して 第三 の 時間 は、 決して 中心 と 循環 する こと の ない、 無限 の 直線 で ある 開か れ た 時間 で ある。 この 時間 は、 それ 自身 として 経験 さ れる こと も なけれ ば、 経験 の 枠組み に 入っ てしまう こと も ない。 逆 に いえ ば、 これ が 経験 の 枠組み に 入っ て くる ので あれ ば、 その 際 には、 経験 そのもの の 秩序 が 脱臼 化 さ れ て しまう こと にしかなり え ない、 そうした 時間 なので ある。


『意味の論理学』になると、言語とそのパラドックスから、無意味な(分裂症的な)身体を論じだすことが、何よりも重要なテーマとなる。だからそこでは、無底的で分裂症的なものである身体の位相から言語が成立してくる、まさに動的発生を論じることが、議論の大きな枠組みになってくる。


「無意味」であることの力能は、実在を駆動するパラドックスとしての威力をもつが、それがその効力を身いだしうるのは、あくまで「意味」においてである。そして「意味」とは、まさに「表層」に宿っている。これを論じることが、この書物の根幹をなしている。


しかし、そこでのパラドックスは、さほど理解困難なわけではない。それは、言語の自己言及性を巡るパラドックスであるのが、それは簡単にいえば、「言語」は「意味」を扱うにもかかわらず、「意味」は「言語」そのものではありえないという事態に集約される。物質性をもたない「意味」は、ある種の現実化された装置たる「言語」の「意義ー意味作用」に依拠して捉えざるをえないのだが、それはつねに「意味」を裏切ってしまうのである。


キャロルのパラドックスにおいて、潜在的なものは流れではなく「意味」である。「意味」は潜在的なものであり、目に見えるものではない。それは見えない仕方で機能する出来事である。しかし「意味」が「意味」として扱われるときには、それは目に見える言葉になってしまう。言語は、その物質的な記号性において「意味」を扱うことになる。これは端的にいえば、矛盾そのものである。


だがそこで「意義」は「指示」や「表出」と複合的な関係にあるとされる。「表出」はパロールという側面においては「意義」に先立つが、ラングという、言葉の体系性を考えるならば、「表出」を可能にするものでもある。そしてさらに「意義」そのものも。その「合意」のあり方を考えるのであれば、「指示」を前提にせざるをえない。したがって、この三つの事態は、互いに互いを支えあう構造になっている。

【所感:放送大学で哲学講義を聴き始めた頃に、ベルクソンを、最初に興味をもった哲学者だった。本書により、ドゥルーズが、肯定、否定に限らず、ベルクソンをかなり、論じていたことを知った。】





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