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竹田青嗣著『欲望』第Ⅰ巻「意味」の原理論を読む(8)


第一部 存在と認識

第二章 認識の謎

第7節 客観認識の数学

二二 普遍認識の夢

ヨーロッパ中世を支配したキリスト教哲学では、絶対的存在の「神」がいることで、認識問題としての謎は解消される。

しかし、ルネッサンス以降は、自然科学が、自然の客観的方法を可能とした。つまり、観察、仮説、実験、検証、その反復という方法を基礎とする近代の自然科学の方法が、自然哲学から派生し、発展して、新しい「客観認識」の方法が見出された。

しかし、哲学の思考が決して成し得なかった世界の客観認識の方法が、なぜ、そしていかなる仕方で可能となったのか?

さらに、自然の領域における新しい客観認識の方法が、言語と認識の謎が解明されることのないままなぜ可能になったのか?

またそのことが意味することは何であるか?

この問いに哲学的に答えを与えたのは、『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』(略して『危機』)におけるフッサールである、と竹田青嗣は言う。

二三 自然の数学化

フッサールによれば、「自然の数学化」には二つの行程がある。

  • 第一は、自然空間と時間を幾何学的秩序として記述すること。

  • 第二は、自然事物についての感性的充実(諸性質)を「数式化」すること。

近代自然科学の認識方法についてのフッサールの大きな総括が以下となる。

  1. 数学的に規定しうる厳密な秩序をもつ客観世界と、その認識可能性という観念。

  2. 数学と物理学が自然の厳密で客観的な認識を可能にしたという確信。

  3. それが世界の一切の領域に適用されるだろうという暗黙の確信、つまり、近代的客観認識の完全な合理性と確実性の確信。そして近代合理主義的知性の認識は、無限に「真の世界」に接近していくであろうという確信。

注意すべきは、にもかかわらず近代合理主義の世界像においても、それを支えた近代の合理主義ー経験主義哲学においても、数学と物理学の厳密な合理性と客観性の本質が明確に把握されていたわけではない、ということである。

近代合理主義的実証主義の方法による認識上の成果にもかかわらず、「認識の謎」が解明されていないこと、哲学的には主観と客観の一致が証明されえないにもかかわらず客観認識と呼ばれるものが成立し、めざましい成果を積み上げてゆくという事態が意味するものは何か?

フッサールによれば、それは世界とその認識主体たる人間との本質関係の間に一つの「意味の顛倒」が生じていることであり、彼はこれを「意味の空洞化」と名づける。

二四 心身二元論

心身二元論の出発点はデカルトの「精神」と「延長」の区分だとされる。しかし、その先行者は、ガリレイにおける合理主義的物理学主義というべき方法からだ、とフッサールは言う。

どういうことだろうか?

それは、自然科学が、物理世界の自立的因果秩序の構造の普遍的な把握という未曾有の認識方法を手に入れたことによって、心的世界においてもまたその自立的因果の秩序と法則を把握しうるという期待が現われたが、最終的には、心的秩序と事物的秩序の厳密な交換式は決して見出されない、ここに、「心身問題」は「認識の謎」の一つの変奏形式として近代哲学における中心的難問になった、と竹田は言う。

デカルトは「松果体」によって、心身を結合しようとする試みは挫折する。デカルト以後、二原理の一元的統合の理論的努力がスピノザ、ライプニッツ、ドイツ観念論(フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなど)によって行われる。

これも失敗し、実証主義的学問の心理学が登場すると、観念一元論は唯物的一元論がその中心的地位を占めた。

近代の実証主義心理学はアメリカでその主流を展開し、ジェームズ、ティチェナーをへて、ワトソンの「行動主義」にまでいたる。

行動主義的心理学に象徴される極端な実証主義的一元論は、一方でゲシュタルト心理学のような揺り戻しを、また他方で、ディルタイや新カント派、そしてベルクソンやメルロ・ポンティなど、哲学における統合的一元論の試みを生み出す。

しかし、現代の心身論の主流は物理学的一元論への傾斜を強くし、それは認知心理学からさらに認知科学へと受け継がれている。

認知科学の発想の根本性格は、「自然の数学化」の心的領域への適用、すなわち「心的なものの自然化」であるといういうことができる。コンピュータと脳とのアナロジーを基礎として始発し、現代の量子力学の分野のめざましい研究の進展によっていっそう強固にその可能性が叫ばれる。

もし人間の思考あるいは心的作用がどこまでも脳内分子レベルの変化ー運動に還元されるのであれば、物理的な量子の存在と精神の作用との完全な互換性を見出すことができるはずでしょう。

そしてなにより決定的な証拠は、われわれは、科学的には、物理的な構成をまったくもたない心的存在、魂、精神の存在を見出すことができない。このことによって現代科学は、すべての心的現象は事物的な組織、秩序、構造によるものものであると強調することができる。

電脳主義者たちの理論とその実践的探求の根本構想を要約すれば、生き物が生きる内的な「自由」をいかに物理的な連関として再現、あるいは創出することができるのかという、問いとなる。

すなわちここには、「自由」という現象を完全な仕方で物理連関として記述し、次にその物理的因果連関を、完全な仕方で再現できるなら、はじめと同じ「自由」が生成できるに違いない、という暗黙の仮説にある。しかしこの仮説は妥当性をもつのだろうか、と竹田は言う。

ベルクソンやメルロー゠ポンティの哲学的洞察が教えるのはつぎのことである。

動物生の生成変化の過程を物理的な因果関係の系列として追いつめると、必ずそれ以上系列をたどることが不可能な「空白」 「間隙」 が見出される。この「空白」 「間隙」は、事物の因果連鎖の系列から一旦逸脱し、再び新しい事物の因果的連結を生み出すという意味で、比喩的に「自由」と呼ばれるべきものである。

竹田青嗣. 欲望論 第1巻「意味」の原理論 (p.715). 講談社. Kindle 版.

端的な結論としては、事物存在の審級は心的存在の審級とは本質的に異なり、前者から後者へ移行することはできない、と竹田は主張する。つまり、認知科学的には、心身一元化はできない、ということになる。













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