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フッサール、ラカンの自我説、フロイトの深層心理学について

竹田青嗣著『新・哲学入門』に基づき、自我説、深層心理学説について学びます。

フッサールは自我の概念を大きく二つに分ける。
①習性の基体としての自我
「私はつねに私である」という人間の自己意識の同一性を支える確信条件は何か、という問いである。

この問いに対するフッサールの答えは
自分のさまざまな経験を、つねに自分自身の経験として、整合的秩序において反復的に想起できるかぎり、誰であれ、「私は私だ」という自然的は自己確信を維持する(構成する)、というものである。

②豊かな具体性としての自我(モナド)
私(自我)が、世界をつねに「生き生きとした豊かな具体性」として認知ー経験する、その内的条件の問いを意味する。そしてこれらの問いが心身問題において、決定的な重要性をもっている。

われわれの知覚には一瞥のうちに対象を豊かな対象として把握する独自の能力がある。

つまり人間の対象知覚とは、カントのいう感性や悟性による対象意味の綜合ということを超えて、対象を、それが内包する豊かな意味、情報、価値、エロス性などの網の目(=全きノエマ)として直観的に観て取ることである。

こうした「一瞥的」対象把握能力は、自我の「受動的綜合」による

「受動的綜合」とは
個人の経験の反復の累積によって形成された、「自我」の綜合的な対象直観の能力のこと。

ラカンの自我説
人間は、自分の欲望を自分で構成することはできず、他者の欲望によってはじめて自分の欲望を形成する。この意味で、人間の「主体」は本質的に「疎外」されたもの、言わば他我によって想像的に騙り取られたものである。

こうした前提から、象徴界ー想像界ー現実界、抑圧ー放棄、あるーない、対象a 、根源的欠如、ファルス、父の名、大文字の他者などの記号論的な精神分析の体系を構築する。

人間の「自我」は他者の「自我」との関係のよってはじめて可能となるというのは正しい(これをはじめに指摘したのはヘーゲル)。

しかしそれが、人間の「主体」の「疎外」や「騙り取り」を意味するというのは、事態の本質でも原理でもなく、一つの恣意的な「解釈」にすぎない。

つまり、ラカン説の背後には、人間の自我や主体のありかたを、ある種の欠損性として描き出そうとする動機が潜んでいる。

ラカン説はフロイトの抑圧、トラウマ、不安、超自我、反復強迫の呼び変えである。

フロイトでは、人間の欲望は去勢複合によってその根本的な方向づけを与えられるが、ラカンではペニスの欠如が人間的欲望の起源ー根源をなすとされる。

これをパラフレーズすると
人間の欲望は動物とは違って幻想的な欲望として形成されるが(これは正しい)、その幻想性は、幼児がエディプス期に経験する男根をめぐる関係上のトラウマにその起源をもつ(これは正しくない)。この仮説は検証不可能だからである。

20世紀の前半、学問界と思想界を席巻したフロイトの「無意識」学説は、一方で、宗教の教派のように細胞分裂し、多くの対立しあう深層心理諸学派(ユング派、アドラー派、自我心理学、対象関係論、構造主義深層心理学等々)を生み出した。

一方で、アメリカを中心とする実証的な心理治療の領域では、フロイトの諸仮説に対して強い批判が生じ、現在では精神分析の学説はほとんど中心的役割を果たしていない。

フロイトの深層心理学説は、もはや普遍妥当性を確保できず、学問として重要性を失ったとみなされるべきだろうか。
竹田青嗣はそうではないと言う。

病の原因についてのシャーマンの説明方法は、現代的な合理性からは客観的現実に妥当しない。にもかかわらず、呪術的療法の実際的効果についてはあらゆる領域で肯定的な報告があり、それをまったく虚偽として退けることはできない。

フロイトの心理療法もこれと同じということである。
患者、治療者、家族、部族の人間たちに共有されている病の原因についての共同的信憑が、治療の効果を支える重要な要因になっていることが推測される。薬における、ブラセボ効果のようなことだろう。

どんなに高度に設計されたコンピューターの働きも、物理的ー事実的因果の厳密な系列として記述できる。
ところが、どれほど単純な組成からなる生き物も、それが動物であるかぎり、その事物ー事実的因果のうちに記述不可能な空白の領域をもつ。

精神分析であれ、シャーマン治療であれ、そこで可能なのは、「不可視域」で生じている事態についての何らかの仮説的説明(=物語)を立て、この仮説に対応した治療行為を象徴的に遂行するだけである。

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