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斎藤幸平著 『ゼロからの「資本論」』を読みました

現在、カール・マルクス著『資本論』の読書メモを投稿中ですが、これに並行して、白井聡著『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』を読み、今回は、若いマルクス研究学者斎藤幸平氏の著書『ゼロからの「資本論」』を読みました。

約55年前の頃は、学生運動が盛んな時代だったので、マルクスを語らぬ者は人にあらずという雰囲気が溢れ出ていた。

ところが、学生運動は、1968年に鎮圧され、この学生運動から派生した赤軍派も国外へと逃亡した頃には、すっかりマルクス主義者の主張は、影が薄くなってきたように感じられた。

そして、1991年にソ連が崩壊してからは、マルクス主義は、間違えていたのだという論調になってきた。このことについて斎藤氏は、下記のように語っている。

NHKの番組「欲望の資本主義2022」で私が対談したチェコの経済学者トーマス・セドラチェクも、マルクスの考えていた「コミュニズム」とソ連は違うと私が何度繰り返し説明しても、どうしても両者をごっちゃにしてしまうので、驚きました。

チェコとスロバキアに分離したのは1993年であるが、分離する前の国名はチェコスロバキアであり、れっきとしたソ連型社会主義共和国であった。そうした歴史をもつチェコの経済学者でさえ、ソ連の共産主義に対して誤解が生じていることに、斎藤氏が驚くのは、無理もないことです。

斎藤氏は、ソ連とコミュニズムと別物だと考えている。では、現存した歴史上の社会主義とマルクスのコミュニズムはどう違うかについてはどうだろうか?

たしかに、ソ連のおいては、最低限の医療の保障、教育や保育の無償化等々で「社会主義」が少なくとも部分的には実現していたように見えるが、共産党の一党独裁がしかれているので、民主義が欠如していることによって、否定的な印象を与えた。

ここで、少し脱線するが、日本の政治状況を見てみると、安倍元首相政権以来、自民党による、議会無視の野蛮な政策を数多くゴリ押しするという極めて、非民主主義的な行動が継続されているが、これではソ連に負けず劣らずの独裁政権だと言えそうです。ただ、今のところ、ソ連で行われていた「大粛清」のような恐怖政治には、至っていないことは、幸いではある。

現存した「社会主義国家」とは、資本家に取って代わって、官僚が労働者の剰余価値を搾取している経済システムすぎない。

実は、マルクス自身は「社会主義」や「コミュニズム」といった表現は、ほとんど使っていなくて、来るべき社会のあり方を語るときに彼が繰り返し使っていたのは、「アソシエーション」という言葉なのです。

マルクスが目指していたのは、ソ連のような官僚支配の社会ではなく、人々の自発的な相互扶助や連帯を基礎とした民主的社会なのです。

さらに、マルクスは、晩年になると、ロシアの農耕共同体であるミールを熱心に研究していた。マルクスは、ミールの方が、西欧社会より経済的に優位であると述べている。

なぜならば、ミールが定常型の共同労働・共同所有を実現していて、そのことが、平等と持続可能性の源泉になっていたから、というわけです。

だから、西欧の方が、自らの危機を解決するためにはミールに見られるような原古的な共同体社会より高次の形態である集団的な生産および領有へ復帰する必要がある、とマルクスは考えていた。

【私見:柄谷行人は、交換Dを「互酬原理よって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体されたとき、そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するもの」と述べているが、それに通底するものを感じる。】

マルクスがミールを参照しながら目指していた豊かさは、個人資産の額やGDPで測れるものではありません。(中略)近代化や経済生長だけを重視するあり方から脱却して、人間と自然の共存を重視し、富の豊かさを取り戻すことを要求していたのです。



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