和辻哲郎著『自己の肯定と否定と』について
和辻哲郎氏の著作は、『古寺巡礼』を教科書で読んだというかすかな記憶しかないのですが、今回は『自己の肯定と否定と』を読んでみました。
和辻氏といえども、ごく普通に子ども時代は、権威への反撥があって、自己肯定が主であり、否定するのは、外圧に対する屈服と思っていたようです。
今日の若者たちは、保守的と言われていて、選挙でも自民党に投票する人が多いように聞いているので、権威に反発するという感覚は薄くなっているのでしょうか?
そのわけは、1968年の学生運動が勃発して社会が動乱状態になったことで、これをつぶすという政治的目的のために1970年から学費の値上げが始まったからだと言われています。
学費が安いと、バイトしなくてすみ、ヒマが増えて良からぬ思想に惑わされてしまうということでしょうか。
そのことによって、日本の大学進学率は、アメリカや韓国に比べても低くなってきた。つまり、暴れるような大学生が減ってきたということになります。
しかも、2005年から給付型奨学金が廃止されたので、ますます進学率の低下に拍車をかけたようです。
こうした背景があって、徐々に、学生は理想を追い求めるよりも、現実に根を張るようになって保守化したと想像できます。
安倍元首相以来、自民党政権が12年も続いているのですから、今の大学生は子ども時代から自民党しか知らないので、これも保守化する要因でしょう。
ここで和辻氏のエッセイの話しに戻ります。
子どものころは、反発的で、自己肯定感が強かったが、成長するにつれて、徐々に、その強度も薄くなったいく様子が描かれています。
その点では、ヘーゲルが『精神現象学』で叙述した、人間が時間とともに発生的に成長していくことと同様なのでしょう。
和辻の「自己肯定」が最大に強いときの心情は、「すべての人が自分を捨ててもいい。人が自分を捨てる前に自分は既にその人を捨てているのである」という、一見強がりとも思える表現をしています。
確かに、孤独や孤立していた時は、私自身も、このように考えていたことを想起します。
そして、そうした強がった後には、「自分は自分の嘲笑や皮肉が人を傷つけ人を怒らせた時、それは本意ではないので深い意味に取られると困ってしまう」などと反省し、かつそうした態度を取る自分を密かに悲しんでいる。
これも、良くあることでした。怒りにまかせて、怒鳴った後は、すっきりとするどころか、かえって、怒ったことへの反省をいつまでも引きずることは、日常茶飯事だった。
和辻は、自分は矮小な人間なんだという自己否定感が芽生え始める。この姿は、本当の自分ではないのだ。本当の自分を伸ばすためには、自己の殻を壊して、これまでの孤立から脱却することが必要なんだということになる。
ハイデガーが「死の恐怖から逃げることなく、真剣に向き合うことによって、本来の自分を取り戻すのだ」という有名な言葉と符合する。
自分の能力は不足しているので、それを育てるためには、我を破壊することがなによりも必要だというのである。
仏教でいう「煩悩から逃れるためには我を滅せよ」という教えと類似してくる。
我というのものに次々と襲われるのであるが、その度にそれを乗り越えようという意欲が湧いてくる。「我を滅する、それは自己否定は自分の要求である。この要求が達せられたときは、自分はすでに自分の頂上に昇っている」と和辻は述べています。
和辻の文章は、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」のようなこねくりまわした概念が含まれていなくて、かなり平易な言葉で編んでいるので、すらすらと読めて楽しいです。エッセイと論文の違いはありますが。
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